バイブル・エッセイ(933)じっと見つめるまなざし

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じっと見つめるまなざし

イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」(マタイ5:1-12)

「御子に望みをかけている人は皆、御子が清いように、自分を清めます」と、ヨハネは書簡の中で語っています。イエスに望みをかけ、神の子として生きたいと願うなら、その人は自分を清くするはずだというのです。この言葉と呼応するかのように、イエスは「心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る」とおっしゃいます。心を清めて生きる人は、あらゆる被造物のうちに神を見るということでしょう。神の子として生きる人は、心を清め、あらゆる被造物のうちに神を見出して、この地上で「天の国」の喜びを生きるのです。

 まもなく、フランシスコ教皇来日から1年になろうとしています。新型コロナウイルスの突然の流行によって世界の状況が大きく変わってしまったため、昨年の今ごろ、東京ドームに5万人もの人々が押し合うようにつめかけ、教皇様を囲んでミサをしたことがまるで遠い過去のようにも思えますが、目先の変化に囚われ、教皇様が残された「すべてのいのちを守る」というメッセージを風化させてはならないとも思います。

 日本に着いた直後、教皇様は「すべてのいのちを守るとは、まず、じっと見つめるまなざしを持つことです」とおっしゃいました。誰かと出会うときには、他のことはすべて脇に置き、まず相手をじっと見つめなさいというのです。目の前で一生懸命に話している相手、涙を浮かべて助けを求めている相手をじっと見つめれば、かけがえのない相手の命の尊さに触れ、その人を満たす神様の愛に触れて、その人を守らずにいられなくなるだろう。それが「すべてのいのちを守る」ということだと、教皇様は考えておられるのです。

 心の清らかな人とは、自分の都合や思惑をすべて脇に置き、相手のいのちをまっすぐに見つめる人だと言っていいでしょう。心が曇らされている人は、誰かがやって来ても、「次はあれをやらなきゃいけないのに、困ったときに来てくれたな」とか、「さて、この人をどう利用してやろうかな」「迷惑をかけられたら困るな」とか他のことばかり考えて、目の前にいる相手をしっかり見ることができません。しかし、心の清らかな人は、そのようなことはすべて脇に置き、相手の目をしっかりと見つめて、その人の中に神を見つけ出すのです。

 清らかな目で相手を見るとき、わたしたちは互いのうちに神を見つけ出します。わたしたちが互いの中に神を見出し、互いに愛し合うなら、そのときこの地上に「神の国」が始まるでしょう。心の清い人、心の貧しい人、謙遜で柔和な人、そのような人たちは、確かに「神の国」を継ぎ、「神の国」を生きる人々なのです。

 今日は諸聖人の祭日ですが、清らかな心を持ち、清らかな目で相手を見て、すべてのいのちを大切に守れるなら、その人こそ聖人だと言っていいでしょう。わたしたちを見つめる教皇様のまなざしを思い出し、わたしたち自身も清らかな心で相手をじっと見つめることができるように、そうすることで「すべてのいのちを守る」ことができるようにと祈りましょう。