バイブル・エッセイ(939)喜んで待つ

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喜んで待つ

 神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た。(ヨハネ1:6-8)

 洗礼者ヨハネは、「光について証しするために来た」と福音書は記しています。光について証しするために来たのですから、ヨハネには必ず光を感じさせる何かがあったはずです。たとえばヨハネの表情がもし険しく、暗いものだったら、人々はヨハネが語る光を信じなかったでしょう。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる」と語るヨハネの顔には、光の到来を確信する者の、喜びに満ちた笑みが浮かんでいたに違いありません。

 パウロ「いつも喜んでいなさい」(一テサ5:16)と言います。イエス・キリストの光と出会い、光について証しする使命を与えられたわたしたちが、暗く沈んだ顔、しょぼくれた顔をしていては、誰も光を信じないでしょう。いつも喜びに輝いた顔でいること。それが、宣教者となるための第一の条件なのです。

 では、どうしたらいつも喜んでいられるのでしょう。パウロは「いつも喜んでいなさい」という言葉に続けて「絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」と記しています。この言葉の中に、いつも喜んでいるための答えが凝縮されているように思います。祈りのまなざしで世界を見るとき、「すべてのことは神さまから与えられた恵み。何ひとつとして当然のことはなく、あらゆることに感謝せずにいられない」という気持ちになり、心の底から喜びがあふれてくるのです。

「祈りのまなざし」を、「神の前にひざまずく謙虚なまなざし」と言い換えてもよいかもしれません。目の前にあるものを当然のものとして受け止めず、神さまから与えられた尊い贈り物としてみるとき、わたしたちの心は喜びで満たされるのです。街角の木々も草花も、今こうして集まっている教会や、そこに集う仲間たちも、何一つ当然のこととしてそこにあるものはなく、すべてが神様から与えられた尊い贈り物であることに気づくこと。そこから祈りが始まると言ってもいいかもしれません。祈ることから感謝が生まれ、感謝はさらに祈りを深めて、わたしたちの心は大きな喜びで満たされてゆくのです。

 では逆に、何が喜びを遠ざけるのでしょう。喜びの一番の敵は、すべてのことを当然と思わせる傲慢だとわたしは思います。「今日も健康で当然」「食事ができて当然」「みんなが奉仕してくれて当然」と思っている人は、どれほど恵まれた生活をしていたとしても、心に喜びを感じることができません。それどころか、ちょっとしたことでも腹を立て、不満を募らせて、いつも暗い顔をしていることになるでしょう。傲慢は、わたしたちを不幸にするために悪魔が忍び込ませた、「悪魔の罠」と言ってもいいかもしれません。この罠にはまった人は、どんなにたくさんのものを手に入れたとしても、いつまでたっても幸せになることができないのです。

 待降節の一番の喜びは、今年もイエスさまを、みんなと一緒にお迎えできることだと言っていいでしょう。これも決して当然のことではありません。来年のクリスマスを迎えられる保証、来年もみんなと一緒にクリスマスを祝える保証はどこにもないのです。こうして共に待降節を過ごせることを感謝し、喜びのうちに、共に主の降誕を準備しましょう。

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