バイブル・エッセイ(940)本当の謙虚さ

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本当の謙虚さ

 天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。(ルカ1:26-38)

 天使の言葉に戸惑い、「どうして、そのようなことがありえましょうか」と問いかけるマリアに、「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。…神にできないことは何一つない」と天使は答えました。あなたがするのではなく、神様がなさるのだから、何も心配する必要はない。あなたにできなかったとしても、「神にできないことは何一つない」と言うのです。

 自分のことを低く評価して、「わたしなんかにそんなことはできない」と自分で決めつけてしまう。そんなことがわたしたちには起こりがちです。わたし自身のことを話せば、最初、神父になることをマザー・テレサから勧められたときがそうでした。「清貧、貞潔、従順の誓いを立て、修道司祭になるというようなことは、わたしなんかには絶対に無理。ありえない」と決めつけていたわたしは、神父になる可能性を示されたとき大いに戸惑いました。「どうして、そのようなことがありえましょうか」と思ったのです。

 ですが、こうして何とか神父になり、もう10年以上も働いています。それはひとえに、神様がわたしを使って下さているからに他ならないと思います。わたしの力では、神父になることはまったく不可能だったでしょう。ですが、困難に直面するたびに、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」というマリアの言葉と共に自分を神様の手に委ねることで、何とか乗り越えることができたのです。もしわたしが、自分の力だけに頼り、自分の努力ですべてを成し遂げようとしたなら、ずっと前につぶれてしまっていたでしょう。わたしがここまで来られたのは、このような弱く不完全なものからさえもよいものを生み出すことがお出来になる、神様の力に他ならないのです。

「わたしなんかにそんなことはできない」という言葉は、謙虚さの現れのようにも見えますが、それをすることが神のみ旨である場合には傲慢なのかもしれません。神様の力は無限であり、神様の手に自分の身を委ねる限り、神様はわたしたちを使って何でもすることができるのです。それを初めから「できない」と決めつけるのは、神様の力を見くびる態度だと言っていいでしょう。本当の謙虚さとは、「わたしには何もできないが、神様におできにならないことは何もない」と確信し、マリアと共に神様の手に身を委ねて生きることなのです。

 競争社会の中で、わたしたちはつい人と自分を比べて過少に評価し、「わたしなんかには何もできない」と考えてしまいがちです。ですが、神様はわたしたち一人ひとりを使って、何かを成し遂げたいと願っておられます。わたしたちはただ、神様のご計画、神様のみ旨に身を委ねさえすればよいのです。心配しなくても、あとのことは神様がすべてしてくださるでしょう。マリアと共に、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と言える信仰の恵みを願って、共にお祈りしましょう。

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