バイブル・エッセイ(957)聖ヨセフの模範

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聖ヨセフの模範

「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」(ヨハネ12:23-26)

「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」という有名な言葉が読まれました。ご自分の死を通して復活の栄光が現れる。自分の死によって多くの人が救われるということをおっしゃっているのでしょう。わたしたちの日々の生活に当てはめていうなら、自分の殻を破り、古い自分に死ぬとき、わたしたちを通して復活の栄光、神の栄光が現れるということになると思います。

 わたしたちはいま「ヨセフ年」を祝っています。聖ヨセフの生涯は、まさに、地に落ちた「一粒の麦」の生涯だったと言ってよいでしょう。例えばヨセフは、結婚の前に身ごもったマリアを、快く受け入れました。おそらく、内心は穏やかでなかったでしょう。「なぜ、こんなことが起こるのか」と悩み、不安や恐れ、怒りさえ感じたかもしれません。ですが、ヨセフは、そのような古い自分に死ぬ道を選びました。「自分にとってはわけがわからないし、受け入れがたいことではあるが、神様にはきっとご計画があるに違いない」と思って、すべてのわだかまりを捨て、神様の手に自分を委ねる道を選んだのです。ヨセフという「一粒の麦」が死んだ結果は、イエス・キリストによる救いの業の実現でした。ヨセフは、自分に死ぬことによって、救いの業の完成に大きく貢献したのです。

 わたしたちの人生にも、自分の思った通りにならないことがたくさん起こります。もしわたしたちが「一粒の麦」になりたいなら、そのときどのように振る舞ったらいいでしょうか。もし「なんでこんなことになるんだ」と腹を立て、周りの人達に怒りをぶつけたりするなら、それはまだ、「古い自分」という麦の殻を破れていない態度だと言ってよいでしょう。自分の殻を守るために腹を立てるのは、神ではなく、自分を主人にする態度なのです。

 もし殻を破り、「新しい自分」に生まれ変わりたいならば、そのようなとき「神様、あなたはこの状況を通してわたしに何を語っておられるのでしょう。何があなたのお望みなのでしょうか」と神に問いかけるべきでしょう。そうすることによって始めて、わたしたちは、古い自分に死に、新しい自分、すべてにおいて神のみ旨のままに生きる自分に生まれ変わることができるのです。

 古い自分に死ぬとき、わたしたちを通して神の栄光がこの地上に輝きます。思った通りにならなかったとしても、その現実を落ち着いて受け入れ、次にすべきことを冷静に判断する思慮深さや、周りの人たちを思いやる愛、人々とつながってゆく喜びが、わたしたちを通してこの地上にあふれだすのです。聖ヨセフの生涯は、まさにそのような生涯でした。次々と起こる思いがけない出来事を、神の手に自分を委ねることで乗り越え、「一粒の麦」となったヨセフの生涯にならって生きられるよう、自分の殻を破って成長してゆくための勇気と力を与えていただくことができるよう、心を合わせて共に祈りましょう。

 

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