バイブル・エッセイ(960)答えは十字架の中に

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答えは十字架の中に

 イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。(ヨハネ19:28-30)

 イエスは十字架上で、「成し遂げられた」と言って息を引き取ったとヨハネ福音書は伝えています。神からイエスに与えられた尊い使命、神を愛しぬき、人々を愛しぬくという使命が「成し遂げられた」ということでしょう。「彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった」とイザヤ書が語っているように、イエスは弱く罪深いわたしたち、神への愛を貫くことができないわたしたちのために、わたしたちに代わって神への愛を全うされたのです。

 イエスを「十字架につけろ。十字架につけろ」と叫ぶ人々、イエスを嘲り、十字架につけたローマ兵たちのために、イエスはご自分の命を捧げました。なぜなら、この人たちが、「自分が何をしているかわかっていない」ことを知っておられたからです。この人たちは、わたしたち一人ひとりがかけがえのない神さまの子どもであること、神が、わたしたちの罪深さや弱さをゆるし、あるがままに受け入れてくださる無限の愛であることを知らないまま、自分たちが属しているローマ皇帝の権威やユダヤ教の掟に従って生活していました。だからこそ、自分たちの生き方を否定するかに見えるイエスの言動をゆるせなかったのです。それはやむをえないことだとイエスは知っていました。なぜなら、神の真理、神の愛の本当の姿が、まだ人類には示されていなかったからです。誰かが人類のために神の愛をはっきりと示す必要がありました。だからこそ、イエスは十字架上での死を選ばれたのです。

 自分を裏切って逃げ出し、イエスを「知らない」とさえ言った弟子たちのために、イエスはご自分の命を捧げました。なぜなら、弟子たちがまだ、死の恐怖にさえ打ち勝つほどの神の愛を知らないとわかっていたからです。弟子たちは、命惜しさにイエスを裏切り、逃げ出しました。ですが、それはやむをえないことだとイエスは知っていました。弟子たちはまだ、死の力にさえ打ち勝つ神の愛の偉大さを知らなかったのです。弟子たちは、まだ自分の弱さも知りませんでした。「あなたのためなら命を差し出す」と簡単に口にすることができたのが、その何よりの証拠です。自分の弱さを知らないということは、あらゆる弱さを受け入れ、ゆるしてくださる神の愛の深さもまだ知らないということです。そのような弟子たちに神の愛の本当の姿を示すために、イエスは十字架上での死を選ばれたのです。

 いまお話したことは、ローマ兵や律法学者、当時のイエスの弟子たちだけのことではありません。わたしたち一人ひとりの中に、同じような弱さ、罪深さが潜んでいるのです。わたしたちも、この世の価値観に引きずられてイエスを十字架につけ、自分の命惜しさにイエスを裏切ってしまうことがありうるのです。そのようなわたしたちに神の愛を示すために、イエスは十字架にかけられました。今日わたしたちは、十字架の前でもう一度そのことを心に刻みたいと思います。何も知らないわたしたちのために、イエスは十字架にかけられました。そしてこの十字架の中にこそ、わたしたちの救い、人生の答えがあるのです。十字架をしっかりと見つめ、十字架から語りかけるイエスの言葉に耳を傾けましょう。