バイブル・エッセイ(961)永遠の命を生きる

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永遠の命を生きる

 安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」(マルコ16:1-17)

  墓にやって来た婦人たちに、おそらく天使と思われる若者が、「あの方は復活なさって、ここにはおられない」と告げます。イエスは死に打ち勝ち、墓を出てガリラヤに向かったというのです。イエスが自分に死んだとき、人間の想像をはるかに越える新しい命が始まったと言ってもよいでしよう。イエスは人間の弱さから完全に解放され、神の前に生きるものとなったのです。

 パウロは、書簡の中で「キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです」と記しています。罪に対して死ぬとは、一体どういうことでしょう。それは、神の御旨に反してしがみついているすべてのものから手を離し、空っぽになることだとわたしは思います。罪とは、「これをしてはいけない」とわかっていながら、欲望に引きずられてついやってしまうこと。欲望に引きずられ何かにしがみつくということ。罪に対して死ぬとは、神の御旨に反して何かにしがみつこうとする自分を葬り、完全に空っぽになるということなのです。

 キリストの十字架は、まさにそのような出来事でした。イエスご自身の中にも葛藤があったことは、ゲッセマネでの苦しみや、十字架上での「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」というイエスの言葉からはっきりうかがえます。一人の人間として、イエスの中にも、できることなら生き続けたいという思いがあったのでしょう。ですが、イエスはその思いを完全に手放しました。十字架上で、自分の命さえも神に差し出し、神に委ねて完全に空っぽになったのです。

 ここから、「神に対して生きる」イエスの新しい命が始まりました。空っぽになったイエスを、神の愛がすみずみまで満たしたのです。イエスと神との間に、もはや変わることも、消え去ることもない永遠の愛の絆が結ばれたといってもよいでしょう。この永遠の愛の絆こそが、永遠の命なのです。イエスは、永遠の愛の中で、永遠に生きるものとなったのです。

 わたしたちの救いがここにあります。キリストにならって罪に死に、神に対して生きるとき、わたしたちは永遠の命を生きるものとなるのです。死ぬということは、肉体の死のことだけではありません。日々の生活の中で罪に対して死ぬ、すなわち執着を手放して神の手に委ねるたびごとに、わたしたちは神の愛と結ばれ、神の命に満たされるのです。罪の闇から解放され、喜びに満ち、晴れ晴れとした心で生きることができるのです。そのように生きて、肉体の死を迎えるとき、生きることへの執着さえ手放して神の手に委ねるとき、わたしたちと神とのあいだに、もはや変わることも消え去ることもない完全な愛の絆がむすばれ、わたしたちはその愛の中で永遠に生きることになります。すべてを手放し、委ねた一瞬が、そのまま永遠に変わる。それこそが、わたしたちの死であり、わたしたちの生命の完成なのです。キリストとともに罪に対して死に、神に対して生きることができるよう、心を合わせて祈りましょう。