バイブル・エッセイ(962)恐れる必要はない

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恐れる必要はない

 週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。(ヨハネ20:1-9)

 イエスの処刑から3日目の朝、マグダラのマリアや弟子たちが墓に行ってみると、イエスの遺体はなく、遺体を包んでいた亜麻布だけが置かれていた。すなわち、墓は空だったと聖書は伝えています。この出来事は、わたしたちに何を語っているのでしょう。

 イエスは、公生活の中でいくつもの奇跡を行いました。その奇跡は、大きくいって二種類に分かれます。一つは、病気の人や深い悲しみの中にある人たちを憐れみ、その人たちをいやす奇跡。神の愛の深さを示す奇跡です。もう一つは、嵐の湖を鎮める、水の上を歩くといった、自然の法則を超えた神の偉大な力を示す奇跡です。

 イエスが墓から消え去るという出来事は、後者に当てはまるといってよいでしょう。嵐の湖を鎮めたとき、イエスが弟子たちに伝えたかったメッセージは「恐れるな」ということでした。すべては神の手の中にあり、嵐の湖でさえ神の力に従う。だから何も恐れる必要はないということです。イエスが墓から出た、死の闇から解放されたということであれば、その出来事が伝えるメッセージもやはり「恐れるな」ということでしょう。イエスは、死の闇の中でさえ自由に動き回ることができるし、地上の権力者たちによる迫害の波も、たちまち鎮めることができる。すべては神の手の中にある。何も恐れる必要はない。この「空の墓」の出来事を通して、神はわたしたちにそう語りかけているのです。

 何も恐れる必要はない。すべては神の手の中にある。これは、どんな時代の人間にとっても大きな安らぎとなるメッセージですが、特にいま、このコロナの時代にあって必要とされるものでしょう。いま、わたしたちは先の見えない闇の中にあります。ですが、何も恐れる必要はありません。イエスは、死の闇の中にさえ光をもたらし、出口が見えない墓の中からさえやすやすと抜け出して行かれる方なのです。たとえ病にかかり、死のときがやって来たとしても、何も恐れる必要はありません。イエスはすでに死に打ち勝ち、死の向こう側でわたしたちを待っていてくださるのです。

「あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです」という、パウロの言葉を思い出しましょう。それはつまり、いまわたしたちはまだ、自分の本当の命に気づいていなということ。自分自身に死んだとき、わたしたちは自分の本当の命を見出すということです。小さな自分に死ぬとき、わたしたちの本当の命が目を覚ますと言ってもよいでしょう。自分に死ぬこと、しがみついてるものから手を離すことは、誰にとっても怖いことです。ですが、何も恐れる必要はありません。すべては神の手の中にあり、神様がすべてを一番よくしてくださるからです。そう信じて自分を神の手に委ね、神から与えられた使命、自分がいますべきことに精いっぱい取り組むなら、道は必ず開かれます。イエスとともにこの時代の闇に打ち勝ち、光の中を歩んでゆけるよう、心を合わせてお祈りしましょう。

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