バイブル・エッセイ(965)良い羊飼い

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良い羊飼い

「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。――彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」(ヨハネ10:11-18)

「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」とイエスは言います。使命に忠実な羊飼いは、預かった羊を守るために自分の命を捨てることさえある。それと同じように、自分は、父なる神から預かった人々を救うために命を捨てるということでしょう。実際イエスは、わたしたち人間の救いのために十字架上で命を捧げました。イエスはまさに、「良い羊飼い」だったのです。

 誰かのために「命を捨てる」とは、その人たちのために生涯を捧げるということだと言ってもよいでしょう。実際に命を投げ出して守るというような場面がなかったとしても、自分のことは脇に置き、委ねられた人たちのために黙々と働き続けて生涯を終えるなら、それは「良い羊飼い」の生涯なのです。わたしたち誰もが、多かれ少なかれ、自分に委ねられた人を持っているでしょう。わたしたちはみな、信徒であれば自分の家族、司祭、修道者であれば教会の信徒たちのために「良い羊飼い」となる使命を与えられているのです。

 委ねられた人たちのために生涯を捧げるとはどういうことでしょう。それは、その人たちのために自分の生涯をすっかり使い果たしてしまったとしても、なんの後悔もない。むしろ、その人たちのために生涯を捧げられたことで、自分の人生は意味のあるものになったと確信できるということだと思います。人生の終わりに、「自分は結局、家族のために人生の大半を使い果たしてしまった。自分のためにはほとんど何もできなかった。でも、それはそれでよかった。わたしは幸せだ」と心の底から思えるなら、その人は家族にとって「良い羊飼い」だったと言ってよいでしょう。愛する人たちのために自分を捧げることができたなら、愛する人たちの幸せのために自分の人生が少しでも役に立ったなら、それだけで十分だと思えるほどの愛。それこそが、「良い羊飼い」の条件なのです。

 修道者の場合、家族がいませんから、教会のため、信徒たちのために自分の人生を捧げ尽くすことになります。世間的に見れば何も残らないことが多いため、「修道者になるというのは、人生を棒に振るようなものだ」と言われることもあります。ですが、「それはそれでいい。神様のため、みんなのために喜んで人生を棒に振ろう」というのが修道者なのです。

 ですがわたしたちは、人生をすっかり無駄にするわけではありません。家族のため、あるいは教会、信徒のために人生を使い果たすとき、自分のためには何も残らないかというと、必ずしもそうではないのです。「わたしは命を、再び受けるために捨てる」とイエスはおっしゃっています。愛する人たちのために自分の生涯を捧げ尽くすとき、神様はわたしたちの心を愛に惜しみなく愛を注ぎ、永遠の命で満たしてくださるのです。矛盾しているような言い方ですが、自分のために生きるのをやめ、愛する人たちのためにすべてを捧げ尽くすときにこそ、わたしたちは自分のために最もよい人生を生きられるのです。そのことに気づき、委ねられた人たちのために生涯の日々を喜んで捧げられるよう、「良い羊飼い」としての一生をまっとうできるよう共に祈りましょう。

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