バイブル・エッセイ(972)蒔かれた種

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蒔かれた種

「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。(マルコ4:26-34

「種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない」とイエスは弟子たちに語りました。種が、わたしたちの気づかない間にひとりでに成長してゆくのと同じように、「神の国」もひとりでに成長してゆく。そこに、神の神秘があるということでしょう。
 最近、ある庭師さんが大人向けに書いた『植物のふしぎ』という本を読みました。種だけに限っても、不思議なことがたくさんあります。種を土に埋めれば発芽して育ち、親と同じものができるという極めて合理的な発生のメカニズムがどのようにして生まれたのか、それは今日に至るまで分かっていないそうで、その辺りからしてまったく神秘的です。さらにすごいと思ったのが、種が長生きするということです。発芽して成長するのにちょうどいいタイミングが来るのを待って休眠し、中には1000年、もっとも古いもので3万5000年前の種が発芽したケースがあるそうです。
 もしかすると、わたしたちの心の中にも、すでに蒔かれているけれども、まだ発芽していない「神の国」の種、神様の愛の種が眠っているかもしれません。たとえば、子どもの頃に聖人伝を読んで、「わたしもいつかこんな素晴らしい人、貧しい人たちの苦しみに寄り添えるような人になりたい」と思ったことがあるとすれば、それは心の中にそのような聖人になるための愛の種が蒔かれているということです。植物の種は、気温が上がり、湿度もちょうどよくなって、「いまが成長のチャンスだ」という時まで発芽しません。愛の種も、その人の中で時が来るのを待っている場合があるように思います。その人が、さまざまな試練を乗り越えて人間として成熟し、いまなら立派な「神の国」を育てられる心を持っている。聖霊の光があたり、心が愛で温まってきた。そう思ったときに、愛の種が発芽するのです。人生の節目にあたって、「そうだ、いまこそ、憧れていたあの聖人のような生活を始めてみよう」と思ったなら、それこそまさに、長年、心の中で眠っていた愛の種が発芽したときなのだろうと思います。
 ただ、残念ながら、眠っているのは「愛の種」だけではありません。雑草の種もたくさん眠っているのです。『植物のふしぎ』によれば、1ヘクタールの畑の地表15センチ以内には、5億5千万個の雑草の種が眠っているとのこと。抜いても抜いても雑草がなくらないのは、ある意味で当然でしょう。人間の心の中にも、憎しみや嫉妬、傲慢、利己心などの種がたくさん眠っているように思います。次々と生える雑草を、全部抜いてしまうことは不可能です。「神の国」を雑草だらけにしないためには、日々、こまめに抜いてゆく以外にないのです。
 幸いなことに、聖霊の光がよくあたり、心が愛で温まっているという条件下では、雑草の種はあまり芽を出さないようです。雑草は、不安や恐れ、欲望などによって光が陰り、心が冷えたときに発芽するのです。心の畑を、いつも聖霊の光に照らされ、愛で温められたよい畑にしておくことができるよう、愛の種を大きく育て、豊かな実りをもたらすことができるよう祈りましょう。

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