バイブル・エッセイ(976)一緒に派遣される

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一緒に派遣される

そのとき、イエスは十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。その際、汚れた霊に対する権能を授け、旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして「下着は二枚着てはならない」と命じられた。また、こうも言われた。「どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい。しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい。」十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした。(マルコ6:7-13)

 イエスは「十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた」と福音書は記しています。なぜ、一人ではなく二人で派遣したのでしょう。治安の問題から一人では危険であること、二人で話した方が証言に重みが出ることなどいくつかの理由が考えられますが、何より大切なのは、二人ならさまざまな困難に協力して立ち向えるということ、そして、そのような二人の姿そのものが福音の証になるということでしょう。

 パンもお金も持たずに行けという指示ですから、旅を続けるためには誰かから食べ物を恵んでもらわなければなりません。一人だけがもらえて、もう一人はもらえないということも、きっとあったでしょう。(わたしも修練者の頃に物乞いをしたことがあるのでわかるのですが、恵んでもらいやすい人と、そうでない人というのはどうしても出てくるのです。) そんなとき、二人組であればもらった食べ物を分かち合うことができます。一人が怪我をして歩けなくなったときでも、二人組であれば、もう一人が背負って運べるでしょう。動けなくなった仲間のために、助けを呼びに行くことだってできます。一人では不可能に思えることも、二人ならできる。そんなことが多いのです。

 二人組での旅の前提となるのは、弟子たちが互いに愛し合っていることです。神の愛やゆるしを説いていても、弟子たち同士は互いにまったく無関心であったり、喧嘩をしていたりすれば、あまり説得力がありません。弟子たちが、さまざまな違いを乗り越えて互いを受け入れ合い、助け合う姿。弟子たちの間に結ばれた確かな信頼の絆。キリストにおける完全な一致。そういったことが、キリストの教えが真実であることの証になるのです。何も持っていないのに幸せそうに旅を続けている二人の姿を見るだけで、人々は、彼らが誰であるのか、何をしているのかに興味を持ったことでしょう。まったく違った二人が協力し、助け合い、幸せに旅を続けていること。それ自体が宣教になるのです。

 このことは、現代社会に派遣された弟子であるわたしたちにも当てはまるでしょう。一人きりでも宣教はできると思いますが、二人、三人、あるいは百人の方が、もっと力強く神の愛を証することができるはずです。十二使徒たちは、それぞれに違った職業や考え方を持っていましたが、キリストにおいて一つに結ばれていました。わたしたちも、さまざまな違いを越えてイエスの愛の中で一致することができれば、そのこと自体が宣教になるでしょう。「時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます」というパウロの言葉は、まず教会の共同体の中で実現される必要があるのです。

 共同体を満たした愛は、自然と外に向かって流れ出してゆきます。あの教会のそばを通ると、なんだか明るい気持ちになる。楽しそうな話し声や聖歌隊の美しい歌声、よく手入れされた花壇、真心込めて作った掲示物など、すべてが協働体の中にあふれる愛の表れであり、キリストの愛の証になるのです。より力強い宣教のために、まず互いに認め合い、ゆるし合い、助け合うことができるように祈りましょう。

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