バイブル・エッセイ(982)感謝の喜び

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感謝の喜び

 エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」そこで、マリアは言った。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう、力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます。主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません、わたしたちの先祖におっしゃったとおり、アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」(ルカ1:41-55

 聖母マリアが、エリザベトを訪問する場面が読まれました。この場面でとても印象的なのは、全体を満たした喜びです。「胎内の子は喜んでおどりました」と言うエリザベトの声は喜びに弾み、「救い主である神を喜びたたえます」と言うマリアの声は喜びに満たされていたに違いありません。読んでいるうちに、二人の喜びが心に流れ込んできて、こちらまでうれしくなってしまう。そんな場面です。

 誰かが喜んでいるのを見るとき、その喜びが自分の心にまで流れ込んでくる。相手の喜びが、まるで自分のことのようにうれしく感じられる。そんなことが時々あります。最近ならばオリンピックでしょう。メダルを受け取る選手たちの喜びに満ちた笑顔を見て、まるで自分のことのようにうれしくなった。心からの拍手を送らずにいられなくなったという人は多いでしょう。選手たちのすがすがしい笑顔と、わたしたちの心にまっすぐに流れ込んでくる喜びは、マリアとエリザベトの喜びと共通するものがあると思います。それは、どちらの喜びも、謙虚さの中から生まれた感謝の喜びだということです。彼ら、彼女たちの笑顔は、「自分はこんなに優れた人間なんだから、恵まれて当然」というような勝ち誇った笑顔ではなく、「こんなわたしに、これほどの恵みがあたえられるなんて信じられない」という謙虚な心から生まれる感謝の笑顔だったのです。

 そのような笑顔、そのような喜びは、見る人の心も喜びで満たしてゆきます。一人の喜びが何人もの人を笑顔にし、ときには何千、何万もの人を勇気づけるのです。「こんなわたしを、救い主のお母さまが訪ねてくださるなんて」というエリザベトの喜び、「こんなわたしが、救い主の母に選ばれるなんて」というマリアの喜びが、時代を越えてどれほどたくさんの人たちの心を喜びで満たしたか、それは想像もつかないくらいです。感謝から生まれる喜びは、天国からあふれ出した喜び、すべての人を幸せにする喜びだと言ってよいでしょう。

 周りの人を幸せにするだけではありません。謙虚さから生まれる感謝の喜びは、自分たちの心にも深く沁み込んでゆきます。「わたしはこんなに優れた人間だ。恵まれて当然」というような喜びはすぐに消え去り、心に虚しさだけを残しますが、「こんなわたしに、これほどまでの恵みが与えられるなんて信じられない」という喜びは、深く心に刻まれて、思い出すたびごとにわたしたちの心を喜びで満たしてくれるのです。そのような喜びは、神さまがわたしたちの一生を支えるために与えてくださった「天からのパン」だと言ってよいでしょう。

 うれしいことがあったときに、自分がどのように喜んでいるかを振り返ってみたいと思います。そのうれしいことを、自分の力で勝ち取った当然のこととして喜ぶか、それとも、神さまから与えられた恵みとして受け取り、感謝して喜ぶか。それによって喜びの性質はまったく変わってしまうのです。マリアとエリザベトにならい、すべての恵みを天からの恵みとして感謝して受け取ることができるよう、心を合わせて祈りましょう。

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