バイブル・エッセイ(983)命の息

f:id:hiroshisj:20210822095233j:plain

命の息

 弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」イエスは、弟子たちがこのことについてつぶやいているのに気づいて言われた。「あなたがたはこのことにつまずくのか。それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば……。命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのである。そして、言われた。「こういうわけで、わたしはあなたがたに、『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのだ。」このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。そこで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われた。シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」(ヨハネ6:60-69)

「わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である」とイエスは言います。イエスの言葉や行いから霊を受けとった者、イエスが「永遠の命の言葉」を持っていると気づいた者だけがイエスのもとに残るということでしょう。では、霊とはいったいなんでしょう。わたしたち自身は、イエスの言葉から霊を受け取っているでしょうか。

 創世記の中に、神がアダムの鼻に「命の息」を吹き込んだときアダムは「生きる者となった」と記されています。アダムを生きる者としたこの「命の息」こそ、神の霊だと考えてよいでしょう。土塊にすぎなかった人間に、「命の息」が流れ込んだとき、人間は生きる者となったのです。わたしは、この「命の息」は神さまの愛だと思っています。絶望の闇の中で生きる力を蘇らせてくれるもの、もう一度立ち上がるための力を与えてくれるもの、わたしたちの全身を満たして、日々の歩みを支えてくれるもの、それは神さまの愛以外にないからです。

 イエスの言葉は、まさにこの息だったと考えられます。イエスの口から出る言葉は、人間に命を吹き込む「命の息」だったのです。言葉だけではありません。イエスの行いや人柄、イエスの存在そのものが、神の口から出た「命の息」だったのです。イエスが人々にパンを割いて与えたときにも、イエスを通して人々に命の風が吹きました。イエスから受け取ったパンを感謝して食べた人たち、「こんなわたしにも、神さまはこれほど豊かにパンを与えてくださる」と喜びの涙をこぼしてパンを味わった人たちは、その風をしっかり受け止め、神さまの愛で心を満たされて、生きる力を、命を与えられたのです。

 しかし、イエスの周りに集まった人たちの中には、そのことに気づかず、「命の息」を受け取れない人たちもいました。単に、パンを食べて腹を満たすためだけに集まった人たち、自分の肉体的な欲求を満たすためにイエスを利用しようとして集まった人たちもたくさんいたのです。そのような人たちは、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲まなければ、あなたたちのうちに命はない」というイエスの言葉を理解できず、イエスのもとを去っていきました。彼らは、イエスご自身こそがパンであること。イエスからあふれ出す神の愛こそが、わたしたちを生かす本当の力であることに気づいていなかったのです。

 さて、わたしたちはどうでしょうか。神から恵みを頂いたときに、どのような受け取り方をしているかを見れば、そのことがわかると思います。たとえば食前の祈りをするとき、わたしたちは、食べ物でお腹がいっぱいになることだけに感謝しているでしょうか、それとも神さまがわたしたちを愛し、豊かな恵みで満たしてくださることにも感謝しているでしょうか。人との出会いに恵まれて楽しい時間を過ごせたとき、楽しかったことだけを感謝しているでしょうか、それとも、そのような出会いを与えてくださった神さまの愛にも感謝しているでしょうか。ペトロと共に、「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます」と言えるよう、日々の生活の中で、イエスからあふれ出す愛の息吹をしっかり受け止められるように祈りましょう。

youtu.be

※バイブル・エッセイが本になりました。『あなたはわたしの愛する子~心にひびく聖書の言葉』(教文館刊)、全国のキリスト教書店で発売中。どうぞお役立てください。

www.amazon.co.jp

books.rakuten.co.jp