バイブル・エッセー(992)何をしてほしいのか

f:id:hiroshisj:20211024072107j:plain

何をしてほしいのか

 イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき、ティマイの子で、バルティマイという盲人の物乞いが道端に座っていた。ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と言い始めた。多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。イエスは立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」と言われた。人々は盲人を呼んで言った。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。そこで、イエスは言われた。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。(マルコ10:46-52)

 「何をしてほしいのか」というイエスの問いに対して、盲人バルティマイは、迷うことなく、「目が見えるようになりたいのです」と答えました。この盲人は、自分に本当に必要なものが何か、よくわかっていたのです。わたしたちもイエスに向かって助けを求めています。ですが、もしイエスの前に引き出され、「何をしてほしいのか」と聞かれたら、すぐに答えることができるでしょうか。もしわたしたちが自分の弱さを知り、自分に欠けているものを願うならば、イエスはきっと、憐れみ深くその願いを聞き入れてくださるでしょう。わたしたちは、自分に欠けているもの、自分が本当に願うべきものが何か、わかっているでしょうか。

 自分が何を願うべきなのか、自分に欠けているものが何なのかわかっていない。そういうことが、わたしはよくあります。たとえば、以前わたしは、若者たちから「あなたの話はまったく非現実的だ。そんな甘いことが通じるのは教会の中だけだ」と言われてひどく落ち込んだことがありました。そのとき、苦しみの中でわたしが神に願ったのは、「若者たちを引き込むような、もっと面白い話をする力をお与えください」ということでした。しかし、それは与えられず、なかなか若者たちから話を受け入れてもらえない状態が続きました。

 あるときわたしは、ふと気づきました。これだけ願っても与えられないということは、もしかすると、わたしは願うべきことを間違っているのかもしれないと思ったのです。若者たちに受け入れてもらえる話をするために本当に必要なもの、それは面白い話をする力ではなく、若者たちの声に謙虚に耳を傾け、彼らの苦しみに寄り添う姿勢。若者たちの苦しみを自分自身のこととして苦しむほどの愛情なのではないか、そのことに気づいたとき、わたしの目の前を覆っていた深い霧が、すっと消えてゆくような気がしました。そして、神に向かって、「どうか、若者たちの苦しみによりそう愛をお与えください」と祈ったのです。すると、それから少しずつ、わたしの言葉は若者たちに受け入れられるようになっていきました。わたしは自分に欠けているものが何なのか、自分に本当に必要なものが何なのか、まったくわかっていなかったのです。

 「本当に大切なことは、目には見えない」という、『星の王子さま』の有名な言葉があります。本当に大事なことは、心でしか見ることができないのです。もし心がくもっていれば、それはある意味で、体の目が見えないことより深刻といえるでしょう。愛や友情、夢や希望などを見失ってしまえば、わたしたちは人生の道を踏み外し、深い闇の中に迷いこんでしまうからです。若者たちとの関係に悩んだとき、わたしが願ったのは面白い話をする力でした。しかし、力だけでは、人生の道を切り開くことはできないのです。心の目を開き、心でしか見えないものに気づくことができるよう、この盲人と共に、「目が見えるようになりたいのです」とイエスに祈りましょう。

youtu.be

※バイブル・エッセイが本になりました。『あなたはわたしの愛する子~心にひびく聖書の言葉』(教文館刊)、全国のキリスト教書店で発売中。どうぞお役立てください。

www.amazon.co.jp

books.rakuten.co.jp