バイブル・エッセー(997)心配する必要はない

f:id:hiroshisj:20211128184810j:plain

心配する必要はない

「太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。その日は、地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかるからである。しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。」(ルカ21:25-28、34-36)

 世の終わりを恐れる人々に、イエスは、天変地異が起こり始めたなら、むしろ「身を起こして頭を上げなさい」と教えました。なぜなら、世の終わりとは「解放の時」に他ならないからです。世の終わりを説く宗教の中には、世の終わりの話をして人々を不安に陥らせ、自分たちの宗教を信じさせるようなものもあります。しかしイエスは、世の終わりとは、この地上での苦しみから解放され、神の愛に包まれて神の子として生きる救いの時。何も心配する必要はないと説いたのです。

 天地が崩れ去るような世の終わりがいつ来るのか、自分が生きているあいだに起こるのか、わたしたちは知りません。しかし、わたしたちは、人生の最後に必ず一つの「世の終わり」を体験します。それは、自分自身の死です。死についてもイエスは、恐れる必要がないと説きました。なぜなら、わたしたちには復活が約束されており、死とは永遠の命に至るための通過点に過ぎないからです。死の時が近づいたなら、わたしたちは、おびえるよりむしろ「身を起こして頭を上げる」べきでしょう。愛し、信頼する神さまの前に出るとき、神さまと顔を合わせて語り合うときが近づいているからです。

 世の終わりのことも、自分自身の死のことも、何も恐れる必要がない。むしろ、最後の瞬間まで神の子としてふさわしく生き、解放の時に備えなさい。それが、キリストの説く一貫した教えだと言ってよいでしょう。キリスト教は、人間の心からあらゆる恐れを取り除き、神の愛へと道を開く宗教なのです。世の終わりが来ようと、死の時が迫ろうと、「いつも目を覚まして祈り」、神の愛に満たされて、神の愛の導くままに生きる。そこにわたしたちの救いがあるのです。

 ある意味で、キリスト教徒には何も恐ろしいものがありません。世の終わりや自分の死さえも恐くないのですから、何を恐れる必要があるのでしょうか。何も恐れず、ただ神の愛のままに生きていればよいのです。ところが、それがわかっていても、わたしたちはつい様々なことに恐れを抱いてしまいがちです。試験の結果が悪かったらどうしよう、人から悪口を言われたらどうしようなどと、小さなことでもくよくよ心配し、「もうどうにでもなれ。やっていられない」などと思って「放縦や深酒、思い煩い」に陥ってしまいがちなのです。そんなときこそ、世の終わりや復活についての教えを思い出すべきでしょう。世の終わりや自分の死でさえ心配する必要がないのに、いま直面している困難について、そこまで心配する必要があるだろうか。そう考えれば、心が少し安らぐはずです。何があっても、神さまがわたしたちを見捨てることは決してありません。すべてが崩れ去ったとしても、そこには神さまの愛が待っているのです。

 今年も、待降節が始まりました。何も恐れない心、神の愛に満たされ、愛に導かれて生きる心に、イエスは必ず来てくださいます。ただ神の子としてふさわしく、愛を生きることだけを考えてこの時を過ごすことができるよう、いつも目を覚ましていることができるよう、心を合わせて祈りましょう。

youtu.be

※バイブル・エッセイが本になりました。『あなたはわたしの愛する子~心にひびく聖書の言葉』(教文館刊)、全国のキリスト教書店で発売中。どうぞお役立てください。

www.amazon.co.jp

books.rakuten.co.jp