バイブル・エッセイ(999)ニつの喜び

f:id:hiroshisj:20211212185506j:plain

二つの喜び

主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。(フィリピ4:4-7)

 「主において常に喜びなさい」とパウロは言います。喜びこそ、神と出会って救われたことの何よりのしるしであり、神が生きておられることの確かな証になるからです。しかし、「別にうれしいこともないのに、いつも喜んでいられるはずがありません」とか、「困難な情況の中でも、無理に喜べというのでしょうか」という声も聞こえてきそうです。どうしたら、「常に」喜んでいられるのでしょう。わたしたちは、どこに喜びを見つけ出すことができるのでしょうか。

 キリスト教の説く喜びは、二つの種類に分けられると言ってよいでしょう。それは、「与えられる喜び」「与える喜び」です。この喜びのどちらかを、あるいは両方を感じることができれば、わたしたちはいつも喜んでいることができるのです。

 「与えられる喜び」を感じるために大切なことは、何より、自分がどれだけ与えられているかに気づくことです。まず、この世界に生まれてきたこと、いまこうして生きていること。それ自体、神さまから与えられた大きな恵みです。神さまが与えて下さったこの命に感謝する。生きていることの奇跡に感謝する。そこからすべての喜びが始まると言ってもよいでしょう。仕事があること、食事に困らないこと、家族や友だちに恵まれていることなど、神さまから与えられている恵みは、数え上げればきりがありません。天気がよいことも恵みだし、日照りが続いた後には雨が降ることが大きな恵みになるでしょう。わたしたちは神さまの恵みの中に生きている。そのことに気づいていれば、わたしたちはどんなときでも、「与えられる喜び」を感じていられるはずです。

 与えられることは当然うれしいことですが、与えることもまた、同じように喜びを生み出してくれます。神さまから頂いた体力や時間を、困っている誰かのために差し出し、奉仕するとき、わたしたちの心は喜びで満たされます。奉仕することによって相手の苦しみが癒されるのを見るとき、わたしたちの心は喜びで満たされるのです。もしかすると、わたしたちが奉仕しても、相手は感謝してくれないかもしれませんが、「人間として当然すべきことができた。自分自身に恥じない行動ができた」ということは、それ自体で大きな喜びなのです。この喜びを味わうために必要なのも、やはり気づくことです。自分の周りにいる人たちの苦しみに気づくなら、わたしたちはその人のために何かせずにいられなくなるでしょう。困っている人、苦しんでいる人、悲しみの中で慰めを求めている人は、わたしたちの周りにたくさんいます。周りの人の小さな苦しみにも気づき、やさしい言葉をかけたり、助けの手を差し伸べたりすることができるなら、わたしたちはいつでも与える喜びを味わうことができるでしょう。

 「与えられる喜び」「与える喜び」は、別の言葉で言えば「愛される喜び」「愛する喜び」ということになります。わたしたち人間は、愛し合うために生まれてきたので、その目的を達成するとき、つまり互いに愛し合うとき、大きな喜びで満たされ、幸せを感じることができるのです。愛し合う喜びをいつも心に感じながらこの待降節を過ごせるよう、心を合わせて祈りましょう。

youtu.be

※バイブル・エッセイが本になりました。『あなたはわたしの愛する子~心にひびく聖書の言葉』(教文館刊)、全国のキリスト教書店で発売中。どうぞお役立てください。

www.amazon.co.jp

books.rakuten.co.jp