バイブル・エッセイ(1003)共に探し求める~共同識別の神秘

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共に探し求める~共同識別の神秘

 イエスの両親は過越祭には毎年エルサレムへ旅をした。イエスが十二歳になったときも、両親は祭りの慣習に従って都に上った。祭りの期間が終わって帰路についたとき、少年イエスはエルサレムに残っておられたが、両親はそれに気づかなかった。イエスが道連れの中にいるものと思い、一日分の道のりを行ってしまい、それから、親類や知人の間を捜し回ったが、見つからなかったので、捜しながらエルサレムに引き返した。三日の後、イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。聞いてい0る人は皆、イエスの賢い受け答えに驚いていた。両親はイエスを見て驚き、母が言った。「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」すると、イエスは言われた。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」しかし、両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった。それから、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった。母はこれらのことをすべて心に納めていた。イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。(ルカ2:41-52)

 イエスをようやく探し当てた両親に向かって、イエスは「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」と言いました。まるで親に反抗しているようにも思えますが、そうではないでしょう。ここでイエスは、わたしたちは誰もが父なる神の子どもであり、父なる神の御旨のままに生きるのがわたしたちの使命であること。たとえ両親でも、子どもが父なる神の御旨のままに生きるのを妨げてはならないことを、マリアとヨセフに教えたのだと思います。父なる神のもとにある家族とは、それぞれが神の御旨のままに生きるのを支え合い、励ましあうための共同体なのです。

 では、どうしたら神の御旨が分かるのでしょうか。イエスは別として、子どもがいつも自分のすべきこと、父なる神から自分に与えられた使命を分かっているとは限らないし、親も、自分の子どもに与えられた使命が何か分かっているとは限りません。神の御旨は、共に祈りながら探し求める以外にないのです。家族とは、父なる神の前にひざまずき、それぞれにとって一番よい道を、共に祈りながら探してゆく共同体だとも言えるでしょう。

 このように、神の前で共に神の御旨を探して祈ることを、難しい言葉で「共同識別」と言います。識別というのは、この場合、単に頭で考えるのではなく、祈りの中で神の御旨を見極めるというような意味合いです。そのための前提になるのは、神以外には、正しい答えを誰も知らないということです。「あなたの意見は間違っている」と、初めから決めつけられる人は誰もいません。自分の意見も間違っているかもしれないということを前提に、相手の意見に謙虚に耳を傾ける必要があります。もし互いが自分の心を空にして相手の意見にしっかり耳を傾け、とことん話し合うなら、そのとき必ずわたしたちのあいだに聖霊が来てくださいます。なぜなら、そのときわたしたちの間には愛があるからです。愛は聖霊を招き、聖霊はわたしたちに神の御旨を示してくださるでしょう。それが、共同識別の神秘なのです。逆に、初めから相手の意見を否定して聞く耳を持たないなら、聖霊が働くことはありません。なぜなら、そこには愛がないからです。

 共同識別が必要なのは、親子だけではありません。わたしたち教会の共同体も、父なる神のもとにあって家族であり、共同識別が必要です。正しい答えを初めから知っている人は誰もいません。司祭であっても、修道者であっても、神の御旨を初めから知っているとは限らないのです。いま、教皇様のシノドスの呼びかけを初めとして、教区でも、小教区でも共同識別が求められています。一つの家族として神の前に共にひざまずき、神の御旨を共に見極めることができるよう祈りましょう。

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