バイブル・エッセイ(1008)解放の福音

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解放の福音

 イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」
イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。(ルカ4:14-21)

 イエスは、イザヤの巻物を読み上げると、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と人々に告げました。イエスが、霊に満たされて力強く語っているということ自体が、イザヤの言葉の実現だという意味にも取れますし、イエスの言葉によって、実際に人々が苦しみから解放されているという意味にも取れるでしょう。いずれにしても、会堂に集まった人々は、聖書の言葉をただ聞いただけではなく、聖書の言葉が実現するのを見たのです。

 わたし自身は、聖書の言葉が読み上げられるたびごとに、わたし自身の中に解放が実現するのを感じます。何からの解放かと言えば、人生の意味への疑いや、さまざまな執着が生み出す心の乱れからの解放です。たとえば、日々の忙しい生活の中で、ふと「こんなことの繰り返しのために、一生を費やしてしまっていいのだろうか」というような疑問が湧いてくることがあります。幼稚園の子どもたちに話したり、信者さんたちのために説教やら講座やら色々準備したり、それはそれでやりがいのあることなのですが、ときどきふっと、「他にもっとやるべきことがあるのではないか」というような気持ちになることがあるのです。

 これは、心の疲れにつけこんだ、悪魔の巧妙な誘惑だと思います。どこで何をするにしても、苦しんでいる人、助けを求めている人たちのために自分を捧げるということ以上に大きな仕事、大切な仕事などありません。しかし、悪魔はわたしたちを世俗の価値観に誘い込み、人から注目される仕事、高く評価される仕事を大きな仕事だと思い込ませるのです。もしわたしが、「こんなことをしていてもだめだ、もっと大きなことをしよう」と考え、日々の仕事をおろそかにするようになれば、悪魔の大勝利と言えるでしょう。

 聖書の言葉は、わたしたちを、このような悪魔の誘惑から解放してくれます。人生の価値は、どれだけ人から評価されたかではなく、どれだけ人を愛したかによって決まるということ。わたしたち一人ひとりが神の子であり、かけがえのない命だということを思い出すとき、人生の意味についての疑問は消え去り、心は喜びと力に満たされるのです。イエスの言葉は、まさに解放の福音だと言ってよいでしょう。

 いま、わたし自身のこととしてお話しましたが、わたしのところに相談に来られる方の中にも、同じような悩みを抱えている方が多いように思います。地位や名声、財力などを手にした人間に価値があるという世間の価値観に閉じ込められ、「神の子」としての自分の本当の価値を忘れてしまっている。世間に評価されることが自分の幸せだと思い込み、家族や友人から愛され、家族や友人を愛して生きることの幸せに気づけなくなっている。そんなことが多いのです。イエスは、わたしたちをそんな囚われから解放するために来られました。聖書の言葉に素直に心を開くなら、その解放は、聖書の言葉を聞いたいまこの時に実現するでしょう。聖書の言葉の実現を目の当たりにし、聖書の言葉の実現を人々に力強く伝えることができるよう、心を合わせてお祈りしましょう。

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