バイブル・エッセイ(1027)ゆるしの頂点

ゆるしの頂点

 さて、ユダが晩餐の広間から出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(ヨハネ13:31-33a、34-35)

 最後の晩餐の席からユダが出て行ったとき、イエスは「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった」と言いました。なぜこのタイミングなのでしょう。まだ十字架にもつけられず、復活もしていないこのときに、なぜ「人の子は栄光を受けた」とイエスは言ったのでしょうか。

 一つの可能性は、イエスがここで、自分を裏切ろうとしているユダをゆるしたということです。イエスはユダに向かって、「しようとしていることを、今すぐしなさい」と言いましたが、それはつまり、「わたしは、あなたがサタンにそそのかされてこれからしようとすることを知っている。しかし、それでもわたしはあなたをゆるす。しようとしていることをしなさい」という意味だったとも考えられます。そうだとすれば、イエスがユダを行かせたことは、イエスの愛の一つの頂点だったと言ってよいでしょう。自分を裏切り、死地に追いやろうとする相手さえあるがままに受け入れ、ゆるそうとするイエスの愛。そんな人間でも愛し続け、救いたいと願うイエスの愛。その愛の中には、確かに神の栄光が輝いています。だからこそイエスは、このとき「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった」と言ったのです。

 どんなに愛しても、自分の愛を受け入れてくれない相手をゆるす。自分を裏切り、傷つけようとする相手さえゆるす。イエスはわたしたちを、そのように愛しました。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」とイエスが言うとき、その愛の中には、自分を裏切ろうとしている相手さえゆるすということまで含まれているのです。よく「相手をあるがままに受け入れる」と言いますが、その「あるがまま」の中には、わたしたちの愛を受け入れようとしない相手を、あるがままに受け入れるということまで含まれているのです。

 いったい、どうしたらそんな愛を実践できるのでしょうか。そのために何より必要なのは、その相手もかけがえのない神の子だということを思い出し、相手を信じることだと思います。イエスはユダを行かせましたが、それは、ユダが必ず自分の間違いに気づいて回心するときが来ると確信していたからでしょう。結果として、ユダは自殺してしまいましたが、その前に自分の間違いに気づき、悔い改めたことは間違いありません。そんなユダを、イエスはゆるさずにいられなかったのです。

 わたしたちにも、そのような愛を実践することが求められています。いまは届かなかったとしても、必ずこの愛が届く日が来る。そう信じて愛し続ける。いまは分かってくれなくても、必ず分かってくれる日が来る。そう信じて愛し続けることが求められているのです。その信頼が裏切られることは決してありません。なぜなら、その人も、神に愛されて生まれてきた神の子だからです。相手をどこまでも信じ、ゆるす愛を実践することで、わたしたちがイエスの弟子であることを証しできるように、そうすることでこの地上に神の栄光を輝かせることができるように、心を合わせてお祈りしましょう。

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