バイブル・エッセイ(1033)イエスと同じ愛を生きる

イエスと同じ愛を生きる

 イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。そして、先に使いの者を出された。彼らは行って、イエスのために準備しようと、サマリア人の村に入った。しかし、村人はイエスを歓迎しなかった。イエスがエルサレムを目指して進んでおられたからである。弟子のヤコブとヨハネはそれを見て、「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言った。イエスは振り向いて二人を戒められた。そして、一行は別の村に行った。一行が道を進んで行くと、イエスに対して、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言う人がいた。イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」そして別の人に、「わたしに従いなさい」と言われたが、その人は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。イエスは言われた。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」また、別の人も言った。「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」イエスはその人に、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われた。(ルカ9:51-62)

 イエスに従うと決心しながら「まず家族にいとまごいに行かせてください」と言う人に、イエスは「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と語りかけました。ちょっと厳しすぎるような気もしますが、イエスが言いたかったのはきっと、「わたしに従うと決めたなら、わたしのそばを決して離れてはいけない」ということでしょう。人間の心は不確かで、ほんのわずかでも離れれば、せっかくの決心が台無しになってしまうかもしれない。イエスは、そのことがよく分かっていたのです。

 イエスの言葉は、「しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません」というパウロの言葉と深く響き合っているように思います。人間の中には、イエスに従って愛に身を捧げたいと願う霊の思いと、自分の思った通りに生きて欲望を満たしたいと願う肉の思いがせめぎあっており、せっかくイエスに従う決心をしても、簡単に肉の思いに引き戻されてしまう。イエスのもとを離れれば、たちまち欲望の鎖にしばられて奴隷に戻ってしまうほど弱い存在だということを、パウロは身に沁みてよく知っていたのです。

 もし「わたしはイエスに生涯従います」と一度固く決心すれば、もう二度と誘惑にあうことも、罪に逆戻りすることもないということなら、どんなによかったかと思います。しかし、人間の心はそのようにはできていません。ちょっとでも油断すれば、誘惑に負けてイエスの教えを忘れ、罪を犯してしまうほど弱い存在なのです。しかし、それは、神が人間を見捨てたということではありません。イエスから離れれば誘惑にあい、罪を犯してしまうということは、逆に言えば、イエスのそばにいる限り、どんな誘惑が来ても恐れる必要はない。イエスの愛にとどまり続ける限り、どんな悪もわたしたちに手を出すことはできないということだからです。

 ここにわたしたちの救いがあります。イエスの愛にとどまり、貧しい人々、社会の片隅に追いやられて助けを待ち望んでいる人々のもとに福音を届けたいという情熱に燃えている限り、わたしたちは肉の思いに引き戻され、罪に陥ることはないのです。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」とイエスは言いますが、それでも「福音宣教のためならば、苦しんでいる人々のもとに神の愛とどけるためならば、何の問題もありません。あなたの後にどこまでもついて行きます」と言える信仰を持っているなら、どんな誘惑もわたしたちを罪の奴隷に引き戻すことはできないのです。

 イエスのそばにいるとは、イエスと同じ愛に燃え、福音宣教の道を歩むということに他なりません。「イエスはいま、誰に福音を伝えたいだろうか。誰のもとに愛を運ぼうとしておられるのか」と問い、イエスと同じ愛を生きることができるように。イエスの後に従い、「神の国」へと続く道を共に歩み続けることができるように、聖霊の助けを願って祈りましょう。

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