バイブル・エッセイ(1046)小さなことへの忠実

小さなことへの忠実

「ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。また、他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか。どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」(ルカ16:10-13)

「ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である」とイエスは言います。これは、わたしたちの体験からも明らかなことでしょう。小さなことに忠実な人は、相手を本当に愛している人であり、相手を本当に愛している人は、小さなことにも、大きなことにも同じように忠実なのです。相手への愛は、小さなことの中にこそ現れるといってもよいでしょう。

 例えば、奥さんがとても疲れているのに、そのことにまったく気づかず、ねぎらい言葉をかけることも、助けの手を差し伸べることもないとすれば、その夫に愛は感じられるでしょうか。ときどき思い出したようにプレゼントをし、愛を誓ったとしても、それは単に奥さんの気持ちを自分に引き戻すためであって、心の底から奥さんを愛しているとは考えにくいと思います。奥さんの疲れにすぐ気づき、ねぎらいの言葉をかけたり、助けの手を差し伸べたりできる人、小さな事で奥さんに忠実な人こそ、本当に奥さんを愛している人であり、小さな事でも、大きな事でも、変わらずに奥さんを愛し続ける人なのです。

 神さまとの関係で考えるならば、大きな事とは神さまを愛すること。小さな事とは、神さまの教えに従って隣人を愛することだと考えたらよいでしょう。どんなに神さまを愛しているといったところで、もし普段、神さまの子どもである人たち、家族や友人、隣人たちに対して不誠実な態度をとっているなら、その人の神さまへの愛は、ちょっと疑わしいと思います。身の回りにいて困っている人たち、世間の片隅に追いやられて苦しんでいる人たちに対する態度の中にこそ、わたしたちの神さまへの愛が現れるのです。

 このように考えていくと、いわゆる「不正な管理人のたとえ」の中でイエスが語ったことの意味も少し分かるような気がします。「不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか」とイエスはいいますが、ここでいう「不正にまみれた富について忠実である」とは、預かった富を神に忠実に使う。つまり、困っている人々、苦しんでいる人々と分かち合うということでしょう。地上での富を正しく使うことができたなら、神さまはその人に天国の富を惜しみなく与えてくださるに違いありません。なぜなら、その人こそ、神さまを本当に愛している人であり、神さまの愛を受けるのにふさわしい人だからです。

 「不正な管理人」は、借金を帳消しにすることによって友だちを作りました。わたしたちは、周りの人たちを気前よくゆるし、友だちを作っているでしょうか。神さまから頂いた愛を、周りの人たちと分かち合ってるでしょうか。もしそれができていないなら、わたしたちの知恵は「不正な管理人」に劣ることになります。小さなことに忠実であることによって、神さまへの愛が本物であることを証することができるよう、心を合わせてお祈りしましょう。

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