バイブル・エッセイ(1047)淵を越える

淵を越える

「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」(ルカ16:19-31)

 助けをよこしてくれと願う金持ちに、アブラハムは「わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない」と答えました。天国と地獄の間に大きな隔たりがあるということですが、これはおそらく、金持ちとアブラハムたちとの間にある心の隔たりのことでしょう。自分のことしか考えられない金持ちと、互いに愛し合って生きるアブラハムたちの世界には、越えようとしても決して越えられない隔たりがあるのです。

 金持ちの言動を追っていくと、彼が自分のことしか考えていないということがよく分かります。彼がまず言ったのは、「ラザロをよこしてわたしの舌を冷やしてください」ということでした。それを断られると、次に言ったのは、「自分の兄弟を地獄に来ないよう諭してください」ということでした。彼が考えているのは一貫して自分と自分の家族のことだけで、ラザロのことはまるで召使か何かのようにしか思っていないのです。もしラザロのことを思いやる気持ちがこの金持ちの中に一かけらでもあったとすれば、彼は、まず自分が生きていたころラザロにした仕打ちを詫びたに違いありません。しかし、ラザロのことなど、彼の眼中にはなかったのです。

 これは生きていたころから同じでした。ラザロはきっと、極度の栄養失調だったのでしょう。栄養失調になると体のあちこちに大きなできものが現れ、そこから膿が出るようになります。自分の家の門の前でラザロがそんな状況で餓死しかけているのを見ながら、彼はラザロにまったく関心を持たなかったのです。この金持ちは、自分さえよければいい、自分たちさえよければいいという考え方で生きてきたということでしょう。そんな彼の心は、死んだ後も変わりませんでした。天国と地獄を隔てる淵は、もうすでに彼が生きているあいだに存在していたのです。

 よいことをした人はその報いとして天国に案内され、悪いことをした人はその罰として地獄に落とされるという風に考えがちですが、実際には、天国に行くか地獄に行くかは、わたしたち自身が決めることだといってよいでしょう。もしこの地上で自分のことしか考えず、他の人たちを利用したり傷つけたりしながら生きている人は、この世界でも地獄を生きて、そのまま地獄に行き、他の人たちの苦しみに関心を持って、互いに愛しあい、助けあって生きる人は、この地上でも天国を生きて、死んだ後も天国に行くのです。

 幸い、わたしたちはまだ生きています。わたしたちはまだ、自分の生き方を変えることによって、天国と地獄の間にある淵を越えられるのです。他の人たちの苦しみや悲しみに関心を持ち、その人たちのために自分を差し出すことによって、少しずつアブラハムの側に近づいてゆくことができるよう、この地上での命が終わるまでに、アブラハムの側に渡ることができるよう、心を合わせてお祈りしましょう。

youtu.be

※バイブル・エッセイが本になりました。『あなたはわたしの愛する子~心にひびく聖書の言葉』(教文館刊)、全国のキリスト教書店で発売中。どうぞお役立てください。

www.amazon.co.jp

books.rakuten.co.jp