十字架の神秘
使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」(ルカ17:5-10)
「自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい」とイエスは弟子たちに言います。わたしたちが神に仕えるのは、僕が主人に仕えるのと同じ。報いを求めず、むしろ仕えさせていただいたこと自体が報いだと思って感謝しなさいということでしょう。
これは、イエスの教えの基本になっている考え方だと思います。こんな取るに足りないわたしが、神さまから尊い使命を与えられた。そのこと自体に感謝して、喜んでその使命を果たす。働かせていただいたこと自体が報いであって、それ以上のものは求めないということです。
ちょっと難しいと思うかもしれませんが、ポイントは、自分に与えられている使命がどれほど尊いものかに気づくことだと思います。たとえばわたしは、神さまから神父という使命を与えられましたが、よく考えてみればこれは途方もなくありがたいことです。こんなに罪深くて弱いわたしに、神に仕え、人々の幸せのために働くという尊い使命が与えられた。困っている人の役に立つ喜びは、何ものにも代えがたい。他の人生を選んでいたら、決してこれほどの幸せは味わうことができなかっただろう。そのように考えて生きている限り、たとえ報いがなかったとしても、「使命を果たしたんだから報いがなければ割が合わない」という発想は出てこないのです。
これは、皆さんも同じでしょう。誰もがそれぞれに、神さまから尊い使命を与えられています。日々の地道な働きを通して社会を支える使命。子どもを育てる使命。家族を守る使命。その使命を果たすときに与えられる幸せ、人生の充実感、それこそが日々の働きの何よりの報いなのです。辛いことも多いかもしれませんが、もし自分にこの使命が与えられなかったらどうなっていただろうかと想像してみると、そのありがたさが分かってくるのではないでしょうか。
使命を与えられたことのありがたさを忘れると、神さまに文句を言いたくなってきます。「なぜ、こんなに働いているのに、わずかな報いしかないのですか。他の誰それは、さぼってばかりなのにあんなに報われて」などと言いたくなってくるのです。神さまが与えてくださった使命に感謝しないばかりか、報いがないことに文句をいうようになれば、これはまさに不幸としかいいようがありません。自分が働かせてもらっていることへの感謝を忘れるとき、わたしたちは「放蕩息子のたとえ話」の兄のように、あるいは「マルタとマリア」の話のマルタのように、不平不満をつのらせ、自分から不幸になっていくのです。
自分の使命を喜んで果たすときにこそ、わたしたちは最高の幸せを味わうことができる。それはつまり、自分自身を、神さまから与えられた使命という十字架につけるとき、復活の喜びを味わうことができるという、十字架と復活の神秘そのものです。日々の生活の中で喜んで十字架を担い、充実した幸せな毎日を生きられるよう、心を合わせてお祈りしましょう。
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