バイブル・エッセイ(1049)感謝こそ信仰

感謝こそ信仰

 イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」(ルカ17:11-19)

 体を癒してもらったことを感謝するために戻ったサマリア人に、イエスは「あなたの信仰があなたを救った」と言いました。サマリア人はユダヤ人とは違う独特の信仰を持っていた人たちだったことを思い出すと、この一言は意味深長です。このサマリア人を救った信仰とは、いったいどのようなものなのでしょう。

 シリア人ナアマンが預言者エリシャによって癒された話は、異邦人が癒されるという点でこの話に似ています。自分の体が癒されたと気づいたとき、ナアマンはエリシャのもとに駆けつけて贈り物を申し出、断られると、「今後、主以外の他の神々に焼き尽くす献げ物やその他のいけにえをささげることはしません」と誓いました。ナアマンの信仰は、神への感謝の深さに尽きると言ってよいでしょう。これは、イエスによって癒されたサマリア人にも共通することです。癒していただいたことへの感謝、神から受けた恵みへの感謝、それこそが異邦人である彼らを救った信仰だったのです。

 わたし自身の体験からもいえることですが、病気から治ったばかりのとき、わたしたちは、体に痛みを感じないでぐっすり眠れること、食欲があること、自分の足で歩いてトイレに行けることさえ恵みであることを実感し、癒して頂いたことを心から神に感謝します。これは、まさに神によって救われた状態だといってよいでしょう。しかし、時間がたつにつれて、わたしたちは救いから遠ざかっていきます。普通に生活できることを当然と思って神への感謝を忘れ、「これでは足りない。もっと欲しい」と神に不満をいうようになるのです。ときには、神を忘れて欲望の虜になり、富や地位、権力を求めて人と争うようにさえなります。救いから完全に遠ざかり、怒りや憎しみ、不安や恐れが支配する苦しみの底に落ちてゆくのです。

 神から受けた恵みへの感謝を忘れるとき、わたしたちは信仰を失い、神の救いから遠ざかる。感謝を失わない限り、わたしたちは信仰を守り、救いの中にとどまり続けることできる。そのように一般化してよいでしょう。まさに、感謝こそがわたしたちの信仰のかなめであり、救いに至るための鍵なのです。

 しかし、それでも、何も感謝することがないという人は、いま自分が生きていること自体に感謝したらよいでしょう。わたし自身もそうですが、わたしたちは、自分が死ぬことを考えて神に不満をいうことはあっても、自分がいま生きていることの不思議さに気づいて、神に感謝することがあまりありません。しかし、よく考えてみれば、この世界に生まれてきたこと自体が奇跡的なことであり、いま生きていること自体が大きな恵みなのです。もし生まれて来なければ、この世界の美しさを見ることもなかったし、大切な人たちと出会うこともできなかったのです。そのことさえ忘れなければ、わたしたちはどんな状況に置かれたとしても神に感謝し、信仰を失わずにいられるでしょう。神から受けた恵みへの感謝を忘れず、救いにとどまり続けることができるよう、心を合わせて神に祈りましょう。

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