バイブル・エッセイ(1052)罪人の悲しみ

罪人の悲しみ

 イエスはエリコに入り、町を通っておられた。そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」(ルカ19:1-10)

 木の上から自分を見ているザアカイに、イエスは「急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」と語りかけました。周りにもたくさんの人が集まっていたのに、なぜイエスは、木の上にいるザアカイにこんなことをいったのでしょう。なぜイエスは、ザアカイを選んだのでしょうか。

 それは、ザアカイの心にある悲しみを、イエスが感じ取ったからでしょう。ザアカイは、「徴税人の頭で金持ち」でしたが、きっとそのために人々からは嫌われ、孤立していたのではないかと想像されます。「お金はあっても友だちがいない」「お金を目当てに集まってくる人はいても、あるがままの自分を愛してくれる人がいない」、ザアカイの心にあったそのような悲しみを、イエスは即座に感じ取った。だからこそ、木の上にいるザアカイに声をかけたのだとわたしは思います。イエスは、わたしたちの心の中にある悲しみに必ず気づいてくださる方。わたしたちがどこにいても、必ず気づいて声をかけてくださる方なのです。

 知恵の書は、神の慈しみをたたえて、「あなたはすべての人を憐れみ、回心させようとして、人々の罪を見過ごされる」と記しています。ザアカイの行動には、確かにこれまで問題があったかもしれません。税金を過酷に取り立てたり、だまして多く集めたりすることもあったのだろうと思います。しかし、イエスはそのことを問題にはしませんでした。ザアカイの心の中に、人々から愛されたいという強い望みがあることを知っていたからです。

 イエスがザアカイの罪を責めず、かえって「あなたの家に泊まりたい」といったとき、ザアカイの心は喜びで満たされました。そして、イエスが実際に家にやってきたとき、ザアカイは自ら、これまで犯してきた罪を悔い、生活を改めることを誓ったのです。「愛されたい」という強い望みが満たされたとき、ザアカイの心の中に眠っていた「愛したい」という気持ちが目を覚ましたといってもいいかもしれません。

 罪人の心の中にある悲しみに気づき、その悲しみを愛で満たすことによってその人を生まれ変わらせる。それがイエスのやり方でした。知恵の書が記している通り、イエスは「存在するものすべてを愛し、(神が)お造りになったものを何一つ嫌われない」方、罪人の心の中にある悲しみにさえ気づき、それを受け止めてくださる方だったのです。

 自分が罪人だと感じても、あきらめる必要はありません。イエスは、罪人であるわたしたちの悲しさ、わたしたちの心の中にある「こんな自分を愛してほしい」という強い望みに気づき、それにこたえてくださる方なのです。イエスは、わたしたちがどこにいても、わたしたちの心の中に隠された悲しみを必ず見つけ出し、救いの声をかけてくださいます。その呼びかけにすぐ応えることができるよう、イエスを心にお迎えし、新しい自分に生まれ変わることができるよう共に祈りましょう。

youtu.be

※バイブル・エッセイが本になりました。『あなたはわたしの愛する子~心にひびく聖書の言葉』(教文館刊)、全国のキリスト教書店で発売中。どうぞお役立てください。

www.amazon.co.jp

books.rakuten.co.jp