バイブル・エッセイ(1057)価値のあるもの

価値のあるもの

 そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。これは預言者イザヤによってこう言われている人である。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。
ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」(マタイ3:1-12)

 洗礼を受けにきたファリサイ派やサドカイ派の人々を、洗礼者ヨハネは「蝮の子らよ、悔い改めにふさわしい実を結べ」と厳しい言葉で戒めました。口先だけで回心しても何の意味もない。行動が伴ってこそ、神の国の救いに与ることができるということでしょう。

「神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる」という洗礼者ヨハネの言葉から、ファリサイ派やサドカイ派の人たちの行動の何が問題だったかがわかります。彼らは、自分たちこそ「アブラハムの子」であり、神から愛された特別な存在だといって、貧しい人々や異邦人たちを見下していたのです。そんな彼らに、洗礼者ヨハネは、「神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる」と言いました。「たとえアブラハムの子だったとしても、そんなことは意味がない。神の前で喜ばれるのは、悔い改めにふさわしい実、互いに尊敬しあい、受け入れあう愛の実を結ぶ人たちなのだ」ということです。

 ファリサイ派やサドカイ派の人たちに限らず、わたしたちはつい、生まれがよいから、何かを持っているからといった理由で自分が優れたものであると思い込み、人を見下してしまいがちです。しかし、実際には、自分は家柄がよいから優れている、財産があるから優れている、社会的な地位があるから優れているなどと考えて相手を見下すとき、わたしたちは神さまを悲しませるもの、愛から最も遠ざかっているものになってしまうのです。相手も自分も、同じようにかけがえのない神の子であることを忘れず、相手に心を開くとき。相手の苦しみを自分の苦しみのように感じて、助けの手を差し伸べるときにこそ、わたしたちは神さまの前で本当に価値のあるものになります。神さまの前で価値があるのは、わたしたち人間のあいだに生まれる愛だけなのです。

 すべての違いを乗り越え、互いを受け入れあって共に生きる理想を、イザヤ書は「狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち、小さい子供がそれらを導く」と表現しています。あらゆる違いを乗り越え、互いに尊敬し合い、共に生きてく世界を実現することこそ天国の理想であり、そのような交わりを実現したときにこそ、わたしたちはこの地上で天国の喜びを味わうことができるのです。それこそが、人類の救いなのだといってよいでしょう。

 自分の家柄や財産、社会的な地位などを誇り、相手を見下す人に対して、洗礼者ヨハネは、「そんなものは石からでも造り出すことができる」と言うに違いありません。家柄や財産、地位などは、石からでも造り出すことができます。神さまの前で価値があるのは、ただ人間の心から生まれてくる愛だけなのです。自分を誇って相手を見下すことがない者、互いに愛し合う者、神の子として本当にふさわしい者となって救いの喜びを味わうことができるよう、心を合わせて祈りましょう。

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