バイブル・エッセイ(1058)救いの証

救いの証

 ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、尋ねさせた。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」イエスはお答えになった。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。」ヨハネの弟子たちが帰ると、イエスは群衆にヨハネについて話し始められた。「あなたがたは、何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か。では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。しなやかな服を着た人なら王宮にいる。では、何を見に行ったのか。預言者か。そうだ。言っておく。預言者以上の者である。『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの前に道を準備させよう』と書いてあるのは、この人のことだ。はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。」(マタイ11:2-11)

 「来るべき方は、あなたでしょうか」という問いに対してイエスは、「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」と答えました。「社会の片隅に追いやられた貧しい人々が、神の愛に触れて生きる力を取り戻し、喜びの歌を歌っている。これが救いでなくてなんだろうか」とイエスは言いたかったのでしょう。イエスこそ、救いをもたらす者であり、「来るべき方」すなわちメシアなのです。

 「来るべき方は、あなたでしょうか」という問いは、いま、わたしたちの教会にも向けられている問いだと思います。教会はいま、「さまざまな宗教が乱立する現代社会にあって、あなたたちの教会は果たして本物なのか、救いをもたらす真の宗教なのか」と多くの人から問われているのです。わたしたちは果たして、イエスのように力強く、「貧しい人は福音を知らされている。神の愛に触れて、喜びに満たされている」と答えることができるでしょうか。そのようなことが、わたしたちの教会で実際に起こっているでしょうか。

 まず、わたしたち自身が喜びに満たされていることが必要です。しょぼくれた顔をした人が、「わたしたちは救われました。喜びにあふれています」と言ったところで、まったく説得力がないからです。「こんなわたしにまで、神さまは豊かな恵み、豊かな出会いを与えてくださった。生きる力と生きる意味を与えてくださった」ということ、つまり「神さまはわたしを救ってくださった」ということを、わたしたちは心の底から実感しているでしょうか。こんなに心の貧しいわたしにさえ福音が告げ知らされたと、わたしたちは自信をもっていえるでしょうか。

 次に、わたしたちが、社会の中で片隅に追いやられている人たちに福音を伝えているかどうかが問われます。イエスのように貧しい人たちの中にでかけてゆき、その人たちに真剣に向かい合うこと、その人たちにとことんつき合うことによって、「あなたはかげかえのない命。神さまの子ども。わたしはあなたと出会えて本当にうれしい」というメッセージを伝えているかどうかが問われるのです。相手は、自分の家族であっても構わないと思います。心にさびしさ、虚しさを感じて苦しんでいる人に、わたしたちが神さまの愛を届けていること。届けようと懸命に努力し、祈っていること。それこそ、わたしたちが本物の宗教、救いをもたらす宗教であることの何よりの証なのです。

 「いや、わたしたちこそ本物の宗教なのです。わたしたちのリーダーこそメシアなのです」などと口先でいくらいっても仕方がないということを、イエスはよく知っていました。だからこそ、「あなたたちが見聞きしたことをそのまま洗礼者ヨハネに伝えなさい」と、洗礼者ヨハネの弟子たちにいったのです。わたしたちも、救いがここにあるということを、わたしたちの生き方、教会のあり方そのものによって証することができるよう、心を合わせてお祈りしましょう。

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