バイブル・エッセイ(1061)愛によって生きる

愛によって生きる

  初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。(ヨハネ1:1-5、9-14) 

「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」とヨハネ福音書は記しています。神の言は愛ですから、この世界に存在するすべてのものは、愛によって造られたといってよいでしょう。それだけではありません。ヘブライ書は、神の言、神の愛であるイエス・キリストが「万物を御自分の力ある言葉によって支えておられる」と語っています。この世界に存在するすべてのものは、愛によって造られ、愛によって生きているのです。

 わたしたちも、その例外ではありません。わたしたち人間も、神の愛によって造られ、神の愛によって生きているのです。そのことは、大きな試練に見舞われたときにわかります。たとえば仕事での挫折。自分の無力さに打ちのめされ、生きる希望を見出すことさえできないとき、わたしたちは、絶望のどん底で愛と出会います。苦しみの底に沈んだとき、わたしたちは、自分の心の底に、そんな自分を受け止めてくれる大きな愛があることに気づくのです。どんなに苦しみの底に沈んだとしても、落ちきってしまうことはありません。わたしたちの心の奥深くには必ず愛があり、その愛がわたしたちを受け止めてくれるのです。愛に受け止められたとき、わたしたちは「ああ、こんな自分でもいいんだ」と思って生きる力を取り戻します。愛の力が、わたしたちを受け止め、もう一度立ち上がらせてくれるのです。

 試練のときだけではありません。日々の祈りの中でも、わたしたちは愛と出会うことができます。自分の無力さを認めてさまざまな執着を手放し、心の奥深くに降りてゆくとき、わたしたちはそこで愛と出会うのです。イエス・キリストと出会うといってもよいかもしれません。キリストは、弱くて欠点だらけのわたしたちをあるがままに受け止め、「あなたはそれでいいんだ。そんなあなたを、わたしは愛している」と語りかけてくださいます。はっきりとした言葉は聞こえなかったとしても、心の底で感じる愛のぬくもりが、わたしたちにはっきりとそう語りかけるのです。その声を聞くとき、わたしたちの心を生きる力が満たします。「こんなわたしでもいいんだ」と自分を肯定し、あるがままの自分を喜んで生きられるようになるのです。

 わたしたちの中に愛があり、イエス・キリストがおられるのと同じように、わたしたちが出会うすべての人の中にも愛があり、イエス・キリストがおられます。誰かと出会い、その人の心の中に愛を見つけ出すとき、わたしたちの心に生きる力が湧き上がるのです。わたしたちは、そのようにして互いに支え合うことで生きている。互いに愛しあうことによって生きているといってもよいでしよう。

 まずは、自分自身の心の中に宿っている愛と出会うことから始めましょう。愛と出会うとき、わたしたちの顔は自然と笑顔になり、口からはやさしい言葉があふれ出します。隣人を、自然と愛せるようになるのです。愛によって造られたわたしたちは、愛によって生きる。そのことをもう一度心に深く刻み、愛に満たされた日々を生きられるよう共にお祈りしましょう。

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