バイブル・エッセイ(1067)「升」を取り去る

「升」を取り去る

「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」(マタイ5:13-16)

 「あなたがたは世の光である。あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい」とイエスはいいます。とても励まされる言葉ですが、中には、「わたしが光だなんてとんでもない。そんな大したことはできません」という人もいるでしょう。イエスがいう「あなたがたの光」とはいったいどういうことなのでしょう。

 わたしたちが輝かせる光について、イザヤ書に次のように書いてあります。「飢えた人にあなたのパンを裂き与え、さまよう貧しい人を家に招き入れ、裸の人に会えば衣を着せかけ、同胞に助けを惜しまないこと。そうすれば、あなたの光は曙のように射し出でる」というのです。この言葉は、わたしたちが輝かせる光とは、愛の光であることを教えてくれます。人々のために自分を喜んで差し出すとき、わたしたちから愛の光が輝き出し、周りの人々を照らすというのです。

 わたしたちの心の奥深くには、生まれながらに愛の火がともされているということを忘れないようにしたいと思います。わたしたちの心の中には、誰でも生まれながらに神さまの愛が宿っており、それがわたしたちを生かす光としていつも燃えているのです。その火は、愛を行動に移したときに一層大きく燃え上がります。いつもは心の中にあってよく見えないその火が、周りの人たちにもはっきり見える火、周りの人たちの心を暖め励ますほど大きな火になるのです。

 燃え上がった愛の火は、周りの人の心を照らすだけではありません。惜しみなく自分を差し出すことで、誰かのために何か少しでも役に立つことができたとき、「ああ、この人のために役に立ててよかった。こんな自分でも、誰かを幸せにできるんだ」という喜びが、わたしたちの心に湧き上がります。心に灯った愛の火が、喜びとなって大きく燃え上がるのです。燃え上がった愛の火は、周りの人を照らす光であると同時に、自分自身を照らす光でもあるのです。

 心にともされた愛の火を、「升の下」に置いてはならないとイエスはいいます。ここでいう「升」とは、愛の火を覆い隠すものだと考えたらよいでしょう。「自分さえよければいい。人のことまで構っていられない」というような自分中心の考え方こそ、わたしたちの心を覆う「升」なのです。「升」に隠されていても、愛の火が消えてしまうことはありません。心の奥深くで、熾火のように燃え続けています。そして、「升」が取り去られたとき、わたしたちが自分中心の考え方を捨て、困っている人たちのために自分を差し出したとき、大きな炎となって燃え上がり、周りの人たちの心を、そして自分自身の心を照らすのです。

 せっかく神さまがともしてくださった愛の火を、「升」の下に隠しておくのはもったいないことです。この愛の火こそ、わたしたちの命の火であり、この火が燃え上がるときにこそ、わたしたちの人生は光り輝くのです。「自分さえよければいい」という考え方の「升」を取り去り、人々の前に愛の光を輝かせることができるよう、心を合わせてお祈りしましょう。

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