バイブル・エッセイ(1078)見よ、キリストの十字架

見よ、キリストの十字架

 ピラトはもう一度官邸に入り、イエスを呼び出して、「お前がユダヤ人の王なのか」と言った。イエスはお答えになった。「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか。」ピラトは言い返した。「わたしはユダヤ人なのか。お前の同胞や祭司長たちが、お前をわたしに引き渡したのだ。いったい何をしたのか。」イエスはお答えになった。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」そこでピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」ピラトは言った。「真理とは何か。」ピラトは、こう言ってからもう一度、ユダヤ人たちの前に出て来て言った。「わたしはあの男に何の罪も見いだせない。ところで、過越祭にはだれか一人をあなたたちに釈放するのが慣例になっている。あのユダヤ人の王を釈放してほしいか。」すると、彼らは、「その男ではない。バラバを」と大声で言い返した。バラバは強盗であった。(ヨハネ18:33-40)

 聖金曜日に、司祭は十字架を高く掲げて、「見よ、キリストの十字架、世の救い」と歌います。そのとき、わたしたちは十字架に何を見るのでしょう。十字架によって示された世の救いとは、いったい何なのでしょうか。イエスの言葉を手がかりにして考えてみましょう。

 イエスは、総督ピラトとの対話の中で「わたしは真理について証をするために生まれ、そのためにこの世に来た」と語っています。真理とは、他でもありません。神は、わたしたち人間を愛しているということです。神は、わたしたち人間を愛している。貧しくても金持ちでも、健康でも病気でも、すべての人が、神から愛されたかけがえのない大切な存在だ。そのことを証するためにイエスはこの世に来られたのです。

 イエスは、そのことをご自分の生き方、ご自分の生涯そのものによって証しました。貧しい人々、病気の人々、職業のゆえに差別されている人々のところへ出かけて行き、その人たちと食事を共にすることによって、その人たちの手を握りしめ、苦しみにしっかり寄り添うことによって、「あなたはかけがえのない神の子だ。神はあなたを愛している」という真理を、人々に証したのです。

 その結果、イエスは社会の秩序を乱す者として捕らえられ、処刑されることになりました。財産や地位がある者、規則に従って生活する者だけが価値のある人間であり、その他は罪人にすぎないと考える権力者たちにとって、イエスの教えは、まったく受け入れがたいものだったのです。しかし、イエスは、命を脅かされても真理を捨てることがありませんでした。「すべての人がかけがえのない命。神はすべての人を愛している」という真理を証するために、イエスはご自分の命を差し出したのです。

 十字架によって示された世の救いとは、この真理に他なりません。十字架を見上げるとき、わたしたちは、真理のために命を捧げたイエスの姿を通して、神の愛が燦然と輝くのを見るのです。十字架を見上げるとき、わたしたちはイエスの姿を通して、「神はあなたを愛している」という言葉を聞くのです。わたしたちがどんなに弱く、不完全な者であっても、醜く、罪にまみれた者であっても、神はわたしたちを決して見捨てることがありません。あるがままに受け入れ、大きな愛で包み込んでくださいます。この事実こそが、わたしたちに示された真理であり、まさに世の救いなのです。

 十字架によって救われたわたしたち、心の傷を癒やされ、生きる意味を取り戻したわたしたちには、イエスと同じように、真理を証する使命が与えられています。貧しい人々、病気の人々、差別されている人々に寄り添うことによって、「神はすべての人を愛している」という真理を証する。それが、十字架によって救われた者の使命なのです。イエスの十字架を見上げながら、この使命のために自分を捧げられるように、自分の生き方を通して神の愛を人々に証することができるように、心を合わせてお祈りしましょう。

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