バイブル・エッセイ(1079)ガリラヤへ

ガリラヤへ

 さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」(マタイ28:1-10)

 復活したイエスが婦人たちに現れ、「わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」と語る場面が読まれました。復活したイエスはガリラヤへ行き、そこで弟子たちに会うというのです。なぜイエスは、エルサレムではなく、ガリラヤといったのでしょう。ガリラヤにいったい、何があるというのでしょうか。

 マタイは、イザヤの預言を引用して、ガリラヤを異邦人の地として紹介しています。「異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ」というのです。イエスは、この地から宣教を始めました。ガリラヤは、貧しい人、病気の人、社会の片隅に追いやられ、神の救いを待ち望む人たちが住む場所だと考えてよいでしょう。復活したイエスは、すぐさま、その人たちのもとに戻っていきました。イエスは、弟子たちよりも先にガリラヤに戻り、貧しさの中で救いを求める人々と共にいたのです。

 イエスは、弟子たちにもガリラヤへ行くよう命じました。それは、弟子たちを、福音宣教の原点に帰らせるためだったと考えられます。福音宣教は、苦しみの闇の中に置き去りにされている貧しい人、病気の人、差別されている人を放っておくことができないというイエスの愛、神の愛から始まったのです。「ガリラヤに戻り、貧しい人たちと出会って福音宣教の原点に立ち返れ。そこから、すべてをもう一度やり直そう」とイエスは弟子たちにいいたかったのかもしれません。

 大きな間違いを犯し、深い後悔の中で苦しんでいる人が、貧しい人たちとの出会いの中で立ち直ってゆく。そのようなことは時々あるようです。わたしが知っている若者は、日本で大きな間違いを犯し、失意の中でアジアへ放浪の旅に出かけました。そこで人々の貧しさに出会った彼は、自分がこれまでどれほど恵まれた世界で生きていたかに気づき、恵まれない人たちのために何かできないかと考えるようになります。そして、スラム街での支援活動をするNGOの活動に飛び込んでいったのです。「こんな自分でも、必要としてくれる人がいる」、貧しい人々との出会いの中で日々感じるその実感によって、彼は絶望の淵から這い上がっていきました。彼の心に宿った貧しい人々への愛、彼の心に宿ったイエス・キリストが、彼を絶望から救ったといってよいでしょう。

 イエスを裏切った弟子たちが、絶望の淵から立ち上がるためには、ガリラヤへ帰ることが必要だとイエスは初めからわかっていました。ガリラヤから始まったことは、ガリラヤからもう一度やり直すことができる。イエスは、そう確信していたのです。愛から始まったことは、再び愛に立ち戻ることでやり直すことができる。そういってもいいでしょう。自分の苦しみに閉じこもらず、人々の苦しみに目を向けるとき、わたしたちはイエスと出会い、イエスと共にすべてをもう一度始めることができる。そのことを忘れないようにしたいと思います。わたしたちが自分にとってのガリラヤに帰り、そこからイエスと共にすべてを始めることができるよう祈りましょう。

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