復活の意味
週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。(ヨハネ28:1-10)
イエスの墓に駆けつけた二人の弟子について、「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかった」とヨハネ福音書は記しています。死者が復活するというのは、確かに理解するのが難しいことだと思います。復活とはいったいどういうことなのか、わたしたちはどのくらい理解しているでしょうか。
弟子たちは、イエスの遺体が墓からなくなっていることで、イエスの復活を信じたようです。しかし、それはまだ十分な理解とはいえません。なぜなら、復活とは、単に死者がよみがえるということではないからです。ラザロのときのように死者がよみがえっただけなら、イエスもまた死ぬということになるでしょう。しかし、復活したイエスはもう死ぬことがありません。永遠の命に移されたからです。復活とは、単に体がよみがえるということではなく、体をともなった形で永遠の命に移されるということなのです。
復活において一番大切なのは、この永遠の生命ということだとわたしは思っています。死とは永遠の命の始まりであり、死と永遠の命は表裏一体、分けて考えることができないようなものなのです。地上から見るとき、わたしたちは死という側面しか見えていません。だから、それを見て恐れるのです。しかし、神さまの側から見れば、それは永遠の命への誕生です。幼稚園の子どもたちには、死と復活はイモムシがいったん蛹になり、それから蝶になるようなものだと説明します。死んでゆく本人にとってみれば、死と復活とは、イモムシとして生きてきた自分が、いったん死という蛹の状態を経て、想像もつかないほど素晴らしい次の命、蝶としての命に移される。開けてびっくり玉手箱、というような体験なのです。
では、蝶が楽しむ永遠の命とは、どんな状態なのでしょう。復活の体がどんなものなのか、永遠の命を生きるということがどんな体験なのか、それはわたしたちの想像を遥かに越えたものです。一つだけいえることがあるとすれば、それは、復活の世界で、わたしたちは永遠に神の愛の中に生きるということです。地上での愛は、時間の流れの中で忘れ去られ、消えてゆくでしょう。しかし、永遠の世界で、愛がなくなることはありえません。永遠とは、時間から解放されるということ。もはや変わることも、消え去ることもない愛の中で、神さまと完全に結ばれるということなのです。
わたしたちが死と思い込んで恐れているもの、それは、実は神さまと完全に結ばれる永遠の喜び、復活の始まりなのだということを、忘れないようにしたいと思います。この永遠の喜びは、地上にいるうちから始まります。わたしたちが、地上の思いを手放して自分に死ぬとき、わたしたちはこの地上でも、永遠の命を味わうことができるのです。日々、自分に死に、そのことによって生きる人生の最後に、神さまの愛の中で永遠に生きる復活が待っている。そう信じて、この地上での一日一日を精いっぱい生きることができるよう、心を合わせて祈りましょう。
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