バイブル・エッセイ(1083)盗人の声と羊飼いの声

盗人の声と羊飼いの声

「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。門から入る者が羊飼いである。門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった。イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。(ヨハネ10:1-10

 羊たちは、羊飼いの声を知っているので、決して盗人の声には従わない。「羊はその声を聞き分ける」とイエスはいいます。ここでいう羊はわたしたち、羊飼いはイエスだと考えたらよいでしょう。羊飼いであるイエスは、わたしたちの心の中に住み、いつもわたしたちを呼んでおられます。わたしたちは、その声を聞き分けているでしょうか。

 わたしたちの心の中には、羊飼いの声だけでなく、盗人の声も響いています。盗人というのは、他人のものまで欲しがる人たちのことですから、わたしたちの心の中にあるさまざまな欲望のことだと考えたらよいでしょう。地位や名誉、財産、権力など、「あれも欲しい、これも欲しい。他人が持っていれば、ますます欲しくなる」という思いこそ、わたしたちの心の中に住む盗人なのです。

 この声に従うとき、他人との間に争いが生まれます。なぜなら、他の人たちも、わたしたちと同じものを求めていることが多いからです。他人と争い始めると、わたしたちの心の中に嫉妬や憎しみ、不安、恐れなどが生まれます。「なぜあいつだけあんなに持っているんだ。あいつさえいなければ、もっと手に入れられるのに」とか、「これを失ったらどうしよう。せっかく手に入れたものを、あいつに奪われてたまるか」といった気持ちが心をかき乱し、平和が奪われてしまうのです。激しい嫉妬や憎しみ、不安や恐れに翻弄されるうちに、わたしたちの心は疲れ果て、ぼろぼろになってゆきます。こうして盗人は、「盗んだり、屠ったり、滅ぼしたり」するという目的を達成するのです。

 心の中に嫉妬や憎しみ、不安、恐れが生まれ、心が乱れ始めたなら、「しまった、いまわたしが従っているのは盗人の声だ」と気づいて、その声に従うのを止め、羊飼いであるイエスの声に耳を傾ける必要があります。イエスは、羊飼いを守るために自分の命さえ投げ出す羊飼いですから、わたしたちの中にあるやさしさや相手を思いやる心こそ、イエスだと考えたらよいでしょう。わたしたち一人ひとりの心の奥深くに宿っている愛こそが、わたしたちの中におられるイエスなのです。

 愛の声に従うとき、争いはなくなります。自分のことより先に相手の苦しみを思い、相手のために何ができるかと考えるのが愛だからです。相手の悲しみを自分の悲しみと思い、相手の喜びを自分の喜びと思う愛が実現するとき、嫉妬や憎しみは消え、不安や恐れもなくなります。こうして、わたしたちの心に平和が訪れるのです。待ちわびた平和の中で、わたしたちの心は、互いに愛しあう喜びと安らぎ、愛が生み出す力によって満たされていきます。愛によって満たされたこの状態こそ、イエスがわたしたちを導く牧場であり、この地上に実現した天国なのです。

 二つの声を聞き分けるために、何より必要なのは、自分の心の動きに敏感に気づくことだと思います。少しでも心が乱れ始めたら、「あれ、おかしいな」と思って立ち止まり、イエスの声に耳を傾けるための時間を持つ。それを習慣にしたいと思います。イエスの声に耳を傾けるための時間を生活の一部にしっかりと組み込み、イエスの声だけに従って生きる羊になれるよう、心を合わせてお祈りしましょう。

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