バイブル・エッセイ(1085)聖霊によって生きる

聖霊によって生きる

「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」(ヨハネ14:15-21)

 聖霊が降るとき、「わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる」とイエスはいいます。心が聖霊で満たされるとき、わたしたちは自分の心の中にイエスの愛が燃え上がっていること。その愛こそがわたしたちの命であることを知り、同時に、わたしたちが生きるこの世界もイエスの愛に満たされていることを知る。イエス・キリストは、神の愛そのものなのだと深く確信する、ということでしょう。聖霊が降るとき、わたしたちの心にこの世界の真実の姿が示され、わたしたちの心は喜びと力に満たされるのです。

 聖霊は、いつわたしたちの心に降るのでしょう。それは、とてもはっきりしています。聖霊は、わたしたちが神を信頼し、自分のすべてを神の手に委ねたときに降るのです。すべてを委ね切り、空っぽになったわたしたちの心を、聖霊が満たすのです。聖霊に満たされた安らぎと静けさの中で、わたしたちは、自分の心の中にイエス・キリストの愛の火が燃えていることに気づきます。どれほど辛く、厳しい状況に置かれていたとしても、わたしたちの心の一番奥深い所には、すべての人の幸せを願うよい心、自分を犠牲にしてもみんなを幸せにしたいと願うキリストの愛が宿っているのです。その愛に気づくとき、わたしたちは生きる力に満たされます。「助けを求めている人たちを、放っておくことはできない。その人たちのもとに愛を届けたい」という気持ちが、わたしたちを立ち上がらせる力、一歩を踏み出す力となるのです。

 そのようにして立ち上がるとき、わたしたちは、出会うすべての人々の中に、イエスの愛の火が燃えていることに気づきます。荒っぽい言葉で人を攻撃するような人でも、自分のことにしか関心がないような人でも、心の一番奥深くには、必ずイエスの愛の火が燃えている。そのことに気づけるようになるのです。「こんなわたしの中にさえキリストの愛が燃えているのだから、相手の中に燃えていないはずがない」、そう思えるようになるといってもよいかもしれません。そのような目で見れば、どんな人の中にも、必ずよいところを見つけ出すことができるのです。

 人間だけではありません。聖霊に満たされるとき、わたしたちは、木々や草花、鳥や動物たちの中にも、確かにキリストの命、神の愛が宿っていることに気づきます。そればかりか、いま呼吸している空気さえ、神の愛に満たされていることに気づくのです。つまり、この世界は神の愛に満たされている。わたしたちは、イエス・キリストの中に生きているということです。

 すべては、神への深い信頼から始まります。聖霊に満たされて、自分自身が、神の愛を宿した神の子であること。この世界こそが天国であることに気づくことができるように。気づいて、自分自身を神の子として、この世界を天国としてふさわしいものにしてゆくことができるように、心を合わせてお祈りしましょう。

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