バイブル・エッセイ(1086)永遠の響き

永遠の響き

 十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28:16-20)

 ガリラヤの丘で弟子たちと再会したイエスは、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」という言葉を残して天に上げられました。体は天に上げられるけれど、イエスの愛は、いつまでもこの地上に残ってわたしたちと共にいる。これまでと変わらずわたしたち人間の苦しみに寄り添い、倒れれば起こし、疲れれば支えてくださるということでしょう。
 わたしは時々、夕陽を見るために近くの海岸に行きます。打ち寄せる波の音を聞きながら、ぼんやりとただ夕陽を見て過ごすのです。そんなときにふと、波の音がイエスの語りかける声のように思えることがあります。はっきりと言葉になっているわけではありませんが、「ザパーン、ザパーン」と寄せては返す波の音が、心に深くしみ込んで、心を癒してくれるからです。
 イエスの声がわたしたちの心に深くしみ込むのは、イエスがわたしたち人間の苦しみをよく知っておられるからでしょう。家族や友だちとの人間関係がうまくいかないとき、わたしたちがどれだけ苦しむか。愛する人と離れ離れになることが、どれだけ辛いことなのか。病気に翻弄される不安が、どれほど苦しいものなのか。人間としてこの地上に生き、十字架の死に至るまで三十数年を過ごしたイエスはよく知っておられます。よく知った上で、わたしたちの苦しみをしっかりと受け止め、その苦しみに寄り添ってくださるのです。苦しみを共に担ってくださる、といってもよいでしょう。
 昇天せずに、いつまでも地上にいてくださればよかったのにと思う人もいるかもしれません。しかし、そもそも、イエスがこの地上に来られたのは、人間の苦しみに寄り添い、神の愛がどのようなものなのか、目に見える形でわたしたちに示すためでした。弟子たちを、人間たちを、愛して愛し抜くために地上に来られたイエスは、十字架の上での死によってその使命を果たし終え、この地上での役割を終えたのです。
 昇天したイエスは、神の右の座に着くと同時に、この地上に聖霊を遣わしました。聖霊は、わたしたちの目を開き、あらゆる被造物の中に宿っている神の愛、イエス・キリストを感じとれるようにしてくださいます。心を静かにして波の音を聞くとき、そこにイエスの声の響きを感じるのは、聖霊がわたしたちの心に来てくださったからなのです。聖霊が来られるとき、わたしたちは、あらゆる被造物の中に神の愛が宿り、イエス・キリストがおられるのに気づきます。木々や草花の美しさの中にも、鳥たちのさえずりの中にも、家族や友人、同僚たちの中にも、そしてわたしたち自身の中にも、確かにイエスがおられるのです。人間の苦しみに寄り添う神の愛が、あらゆる被造物の中に宿っているのです。
 波の音は、わたしたちが死んだ後も、何千年、何万年、あるいは何億年も、寄せては返し、浜辺に響き続けるでしょう。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」というイエスの約束は、確かに守られているのです。聖霊がわたしたちの目を開き、あらゆるものの中にイエスの愛を感じとれる心を与えてくださるように祈りましょう。

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