バイブル・エッセイ(1087)愛の言葉

愛の言葉

 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」(使徒2:1-11)

 聖霊が降ると、弟子たちはそれぞれ外国の言葉で話し始めた。集まった人たちは、「だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった」と使徒言行録は記しています。聖霊は、言葉の壁を取り払い、人々の心を一つに結びつけるということでしょう。
 言葉の壁は、日本語と英語、ベトナム語というような言語グループの間だけでなく、同じ言語を話している人たちの間にも生まれることがあります。たとえば、若者と高齢者の間で、健康な人と病気の人の間で、あるいは男性と女性の間で、同じ日本語を話しているはずなのに言葉がうまく通じないということが起こりうるのです。
 わたしもときどき、相手にどんな言葉をかけていいのか分からなくなることがあります。たとえば、重い病気で苦しんでいる人や、愛する人と死別したばかりの人などと話すとき、「何をいっても空々しい言葉にしかならないのではないか。こんなとき、どんな言葉をかけたら相手の心に届くのだろう」と考え込んで、言葉がでなくなってしまうのです。
 そんなとき、わたしは、「神さま、いまあなたは、わたしを通してこの人に何を語りたいと思っておられますか」と尋ねることにしています。自分の心の中に宿っている神さまの愛に問いかけるといってもいいでしょう。すると、心の中で神さまの愛が動き始めます。いま相手がどんな気持ちでいるのかが少し想像できるようになり、その人の苦しみに寄り添っていくための言葉が湧き上がってくるのです。「それはお辛いですね」と一言いうにしても、ただ口先だけでいうのと、神さまに問いかけ、愛に心を動かされて話すのでは、相手への届き方が違うようです。
 このとき、わたしたちに相手の気持ちを想像させてくれる力。相手の気持ちに寄り添った言葉を与えてくれるもの、それが聖霊なのではないかとわたしは思います。聖霊は、わたしたちの間にある壁を取り払い、相手の苦しみを、自分自身の苦しみのように感じさせてくれます。相手の苦しみを、自分自身の苦しみのように感じたとき、わたしたちの口から自然と湧き上がってくる言葉。その言葉には、あらゆる壁を越えて、わたしたちの思いを相手に届ける力があるのです。
 言語が異なるときでも、聖霊は、わたしたちの思いを相手に伝えるための言葉を与えてくれます。相手と出会えた喜びに満たされてにっこりほほ笑めば、「あなたに会えて本当にうれしい」という気持ちを相手に伝えられるし、死別などの悲しみの中にある人の隣に座って一緒に涙をこぼせば、「親御さんを亡くして本当に辛いでしょうね」というような思いを相手に伝えることができるのです。聖霊の語らせる言葉は、愛の言葉だといってもよいでしょう。愛に突き動かされて語る言葉は、あらゆる隔ての壁を越え、相手の心に届くのです。いつもそのような言葉で語ることができるように、聖霊に満たされて、愛の言葉を語ることができるように、心を合わせてお祈りしましょう。

 

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