謙虚な心に聖霊が降る
「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである。言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」(ヨハネ15:26-27、16:12-15)
「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない」とイエスはいいます。これから起こる受難と復活の出来事を体験し、聖霊を受けてからでなければ理解できないことがたくさんあるということです。聖霊を受けてからしか理解できないとは、いったいどういうことなのでしょう。
パウロは霊に対する肉の業として「怒り、利己心、不和、仲間争い」を上げています。それらがわたしたちの心を支配している限り、決して霊による業は行えない。霊を受けられないということでしょう。聖書の中にたびたび書き残されているように、弟子たちのあいだにはまだ、これら肉の思いがたくさん残っていました。イエスと長い間一緒にいたにもかからず、弟子たちはまだ、自分たちの中で誰が一番偉いかを言い争ったり、自分たちを出し抜いて出世しようとした兄弟に怒りを燃やしたりし続けていたのです。自分の力を誇り、互いに争い合っていたといっていいでしょう。
しかし、十字架と復活の出来事を通して、この誇りは打ち砕かれました。「自分こそイエスの一番弟子」などといいながら、イエスを残して逃げてしまったからです。弟子たちは自分の弱さ、ふがいなさを責めると同時に、イエスに対して申し訳ない気持ちでいっぱいになったことでしょう。そのような気持で弟子たちは一つの部屋に集まり、祈っていたのです。聖霊がくだったのはそのときでした。打ち砕かれ、謙虚になった弟子たちの心を「喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」といった霊の賜物が満たしたのです。霊の賜物を受けるために、弟子たちの心は一度打ち砕かれる必要があったといってもいいかもしれません。聖霊の恵みは、誇りを打ち砕かれ、空っぽになった心だけを満たすことができるのです。
自分の弱さを知るときに聖霊が降るといってもいいかもしれません。教会の仲間や家族のあいだでも、自分の力を誇って競い合っているあいだは、決して聖霊が降ることはありません。何か大きな失敗をして、もはや自分を誇ることができない。病気や高齢で、自分のことでさえ自分ではできない。もはや、何も自分に誇るものはない。そのようなときにこそ、聖霊が降るのです。謙虚な心でゆるしを願い、助けを求めるわたしたちの心に、神さまは聖霊を注いでくださるのです。
今日、この日を聖霊降臨の日にするために必要なのは、ただ一つ、自分の弱さや限界を認め、人と競い合うのを止めること。自分の弱さや限界を認めると同時に、相手の弱さや限界を認めてゆるしあうことだといっていいでしょう。そのとき、わたしたちのあいだに和解と一致、助け合いが生まれます。それこそ、今日、わたしたちの上に聖霊が降ったしるしなのです。日ごとにわたしたちの心を聖霊が満たし、毎日が聖霊降臨の日となるように、ご一緒に祈りましょう。
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