バイブル・エッセイ(1159)生きる力

生きる力

「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」それで、ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始めた。イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」(ヨハネ6:51-58)

 「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる」とイエスはいいます。「命のパン」であるイエスを食べるなら、イエスがいつもわたしたちの内にいて、わたしたちは永遠に生きるというのです。イエスを食べるとは、いったいどういうことなのでしょうか。
 ミサの中でわたしたちは、イエスの肉を食べます。それは、御聖体を頂くということだけでなく、御聖体の中に込められたイエスの愛を、しっかり噛みしめて味わい、生きる力に変えていくということです。イエスの言葉を聞き、イエスの生涯を思い起こしながら、「こんなに弱くて罪深いわたし、すぐ誘惑に負けてしまうわたしを、イエスはあるがままに受け入れてくださった。こんなわたしにさえ愛を注ぎ、わたしを生かしてくださっている」、そう思って感謝の涙を浮かべる。そして、「よし、頑張って生きていこう。イエスの愛にこたえ、イエスから与えられた使命を果たそう」と思って立ち上がる。それが、イエスの肉を食べるということなのです。
 そのようにしてイエスを食べるとき、わたしたちの中にイエスがいます。イエスの愛がわたしたちの心に深くしみ込み、わたしたちを生かす力となっているからです。パウロがいうように、生きているのは、もはやわたしたちではありません。イエスがわたしたちの内に宿り、わたしたちを生かしているのです。わたしたちの内に宿ったイエスは、死ぬことがありません。たとえ肉体が死んだとしても、わたしたちの内に宿った愛は、愛の源である父なる神のもとで永遠に生き続けるのです。イエスを食べて生きている者にとって、肉体の死は、ただ愛の源に帰るということに過ぎないのです。
 「先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う」ともイエスはいいます。先祖が食べたのに死んでしまったパンとは、食料としてのパンのことだけでなく、この地上で価値があるものとされ、人間が手に入れようとするもの。財産や名誉、権力などの「地上のパン」のことだと考えていいでしょう。そのようなパンは、食べることによって人間を思い上がらせ、心の中から愛を追い出して、心をやせ細らせる危険性をはらんでいます。知らないうちに心から生きる力を奪い取り、人間を絶望の闇、死の闇へと追い込んでいく、悪魔の策略に使われやすいのです。
「命のパン」は、謙虚な心でしか食べることができない。わたしたちを思い上がらせるものは、わたしたちを「命のパン」から遠ざけ、死の闇へと追いやっていく。そのことをしっかり心に刻み、忘れないようにしたいと思います。欲望や感情に押し流され、してはいけないとわかっていることをしてしまうわたしたち、そんな弱いわたしたちをイエスはあるがままに受け入れ、やさしく見守っていてくださる。どんなときでも、イエスはわたしたちを愛していてくださる。日々の生活の中でそのことを思い出し、イエスの愛を生きる力とすることができるように祈りましょう。

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