誰も見下さない生き方
ガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。それは弟子たちに、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言っておられたからである。弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」(マルコ9:30-37)
自分たちの中で誰が一番偉いかと言い争っている弟子たちに、イエスは、「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」と語りかけました。「すべての人の後になる」とは、自分を一番下に置き、誰一人として見下さないこと。「すべての人に仕える」とは、すべての人を敬い、誰に対しても誠実な態度で接するということでしょう。誰一人見下さず、誰に対しても誠実な態度で接する人。その人こそが最も偉い人、最も神さまに喜んでもらえる人なのです。
カトリック信者の間で、聖書の次によく読まれているといわれるトマス・ア・ケンピスの『キリストにならいて』の中に、修道者たちに向けて書かれた次のような一節があります。「自分を万人の下に置いたとしても、それには何の害もない。だが、自分をたとえ一人の上にでも置くなら、大変な害を受けるだろう」というのです。財産を捨て、家族から離れてイエスに従い、修道院に入った修道者たちの間でさえ、誰が一番偉いのかという争いは起こります。人から尊敬されたい、人から高く評価されたいというのは、人間に残る最後の欲望といっていいくらい根が深いものだといってよいでしょう。
しかし、たった一人に対してでも、「わたしの方がこの人よりましだ。わたしの方が価値のある人間だ」などと思ったなら、そこから生まれてくる害悪は計り知れないとケンピスはいいます。なぜなら、それは傲慢以外の何ものでもないからです。傲慢はわたしたちを愛から遠ざけ、相手を平気で見下したり、傷つけたりする罪へと引きずりこんでいきます。心からは穏やかさが失われ、わたしたちは神さまの愛の中で安らかに憩う静けさを失ってしまうのです。そんなことになるくらいなら、自分を一番下に置き、すべての人を敬いながら生きる方がはるかにいい。どんなときでも、神さまの愛の中にとどまり、神さまの愛の中で幸せに生きたい。ケンピスはそう願っていたのです。
自分を一番下に置くということは、自分を見下すということではありません。「誰一人見下さない」という原則の中には、当然、自分自身も含まれるのです。自分を見下し「こんな自分はダメな人間だ。生きている価値がない」と思っている限り、わたしたちは、他人を心から尊敬することができないでしょう。どうしても、「どうせわたしなんか。それに比べてあの人はうらやましい」などという卑屈な考え方になってしまうからです。「こんな自分でも、神さまは愛してくださっている。わたしが生きていることには、確かに価値がある。他人と比較する必要などどこにもない」と思えたときにだけ、わたしたちは、本当の意味で謙虚な心になり、自分と同じように神さまから愛されたかけがえのない存在である周りの人たちを尊敬できるようになるのです。「自分にはかけがえのない価値がある。目の前にいるこの人にもかけがえのない価値がある。わたしたちがこうして一緒に生きているということは、本当にすばらしい」、そう思って日々を生きられるよう。神さまの愛の中で、互いに愛しあって生きられるよう、心を合わせてお祈りしましょう。
※バイブル・エッセイが本になりました。『あなたはわたしの愛する子~心にひびく聖書の言葉』(教文館刊)、全国のキリスト教書店で発売中。どうぞお役立てください。