バイブル・エッセイ(1165)神の栄光のため

神の栄光のため

 ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。」(マルコ9:38-43、45、47-48)

 弟子たちがイエスに、「お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました」と報告する場面が読まれました。イエスはただちに「やめさせてはならない」と命じます。悪霊に苦しんでいる人が、イエスの名によって救われているなら、それをやめさせる必要などないというのです。
 そもそも、なぜ弟子たちはイエスの名で悪霊を追い出している人を止めようとしたのでしょう。それは自分たちのプライドのためだったと思われます。「わたしたちこそがイエスの本当の弟子だ。わたしたちを通さないでイエスの名を使うなんてゆるせない」、弟子たちはきっとそう思ったのでしょう。しかし、イエスにとって、そんなことは問題ではありませんでした。イエスが願っていたのは、一人でも多くの人がイエスを通して神の愛と出会い、救われること。神のみ旨がこの地上に行われること。ただ、それだけだったのです。
 このようなことは、教会でもよく起こりがちです。神さまのために行っていることの中に、つい自分のプライドが紛れ込んでしまうことがあるのです。たとえば、神父のところに信者さんがやって来て、「あの神父さまの説教で救われました」などと他の教会の神父を絶賛することがあります。そんなとき、わたしのように人間ができていない神父は、つい「じゃあ、わたしの説教はどうなんですか」と思ってしまいます。これはまさに、「神さまのため」に行っているはずのことにエゴが紛れ込んでいる証拠でしょう。
 友だちとの会話や、教会の会議などでも、このようなことがよく起こります。相手が言っていることの方が正しいと分かっているのに、つい我を張って、自分の意見にこだわってしまう。相手のあら捜しをして、自分の意見を通そうとする。そのようなことが起こりがちなのです。本当に大切なのは神さまのみ旨が行われること、みんなが救われ、幸せになることなのに、そのことをすっかり忘れ、ただひたすら自分の我を通そうとする。そんなことが起こってしまいがちなのです。
 イエズス会の創立者、聖イグナチオは「神のより大いなる栄光のために」という言葉をモットーにしていました。「自分の栄光など求めない。すべては神の栄光のために」という思いが込められた言葉です。自分の栄光、自分の利益などどうでもいい。ただ、神のみ旨に適うことだけを選び、行いたい。聖イグナチオは、常にそう願っていたのです。わたしたちも、この言葉を心に刻みたいと思います。つい我を張ってしまい、心が乱れ始めたときには、心の中で「神さま、わたしはいま、どう行動すればよいのでしょうか」と神さまに問いかけてみましょう。我を折って、謙虚な心で神さまの愛の声に耳を傾けるなら、必ず取るべき態度、話すべき言葉が与えられるはずです。どんなときでも、ただ、神さまのみ旨が行われることだけを願って生きられるよう、心を合わせてお祈りしましょう。

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