すべての人の僕
そこでイエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」(マルコ10:42-45)
自分たちの中で誰が一番偉いのか、誰がイエスの右の座に着く者なのかを言い争う弟子たちに、「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」とイエスが語りかける場面が読まれました。神さまの前では、すべての人の僕になる人、自分をすべての人の下に置く人こそが一番偉いというのです。
ここで気をつけなければならないのは、どういう動機で「皆に仕える者」になるかということです。もし「自分が偉くなりたいから奉仕する。実際には自分の方がみんなより上だが、神さまから評価してもらうために止むを得ず奉仕する」ということなら、それはイエスの思いに反すると言ってよいでしょう。自分自身の弱さを知り、自分は本当に罪深い者だと自覚して、謙虚な心で奉仕する人。神の子である兄弟姉妹に対して、喜んで奉仕する人こそが、神さまの前で最も偉い人なのです。
イエスご自身について、「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われた」と「ヘブライ人への手紙」に記されています。イエスは、人間のあらゆる弱さを自分自身のこととして知っておられる。だからこそ、わたしたちの弱さに共感し、わたしたちを救ってくださるのだということです。自分自身の弱さを知っているからこそ、困難の中にいる人に奉仕の手を差し伸べずにはいられない。自分と同じ弱さを抱え、苦しんでいる相手を放っておくことはできない。それが、キリスト教における奉仕の基本なのです。
わたしたちは、ついこのことを忘れてしまいがちです。相手を見下し、「なぜわたしがあの人に奉仕しなければならないんだ」という風に考えてしまいがちなのです。わたし自身も、たとえば、身勝手な主張を繰りしてこちらを攻撃してくるような人がいた場合、「とんでもない人だ。あんな人は放っておけばいい」とつい考えてしまいます。しかし、それはやはり傲慢な態度だといってよいでしょう。わたし自身も、かつて身勝手な態度をとり、周りの人たちを攻撃したことがあるからです。自分自身のことを思い出すなら、相手に対して厳しい態度をとることはできません。むしろ、「あの人はいま、かつての自分と同じように、自分が何をしているか、周りの人からどう思われているかわかっていないんだ」と考え、謙虚な心で相手に救いの手を差し伸べる。それが、わたしたちのとるべき態度でしょう。
無理なく奉仕できる相手にだけ奉仕するのでは、「すべての人の僕」になることはできません。自分自身と徹底的に向かい合い、自分の中に人間の弱さのすべてがあるのを知った人、誰一人として「こんな人は相手にする必要がない」と思って見下すことがない人こそが最も偉い人なのだということを、心に刻んで忘れないようにしましょう。
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