永遠の真理
そのとき、ピラトはイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と言った。イエスはお答えになった。「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか。」ピラトは言い返した。「わたしはユダヤ人なのか。お前の同胞や祭司長たちが、お前をわたしに引き渡したのだ。いったい何をしたのか。」イエスはお答えになった。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」そこでピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」(ヨハネ18:33-37)
「お前がユダヤ人の王なのか」と尋ねるピラトに、イエスが「わたしの国は、この世には属していない」と答える場面が読まれました。「真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」という言葉から、イエスの治める国は、この世の目に見える国ではなく、目には見えない真理の世界だということ。永遠に変わることなく人間の心に君臨し、いつの時代にも人々を幸せへと導く真理の王こそがイエスなのだということが分かります。
では、どんな時代でも変わらずに、わたしたちを幸せへと導く真理とは何なのでしょう。それはたとえば、「困っている人がいれば、助けてあげる」ということでしょう。それは、幼稚園の子どもたちでも知っています。わたしはよく幼稚園の子どもに、「道で倒れている人のそばを、三人の人が通りました。一人目は大金持ちでしたが、知らんぷりして通り過ぎました。二人目はとても頭がいい人でしたが、その人も知らんぷりして通り過ぎました。三人目の人は、お金もないし勉強もあまりできないのだけれど、優しい心を持った人で、倒れている人を助けてあげました。この中で一番、偉いのはどの人かな」と尋ねます。子どもたちは、迷うことなく、大きな声で「助けてあげた人」と答えます。財産や学歴は関係がない。「困っている人がいたら、助けてあげる」、それが一番よいことだし、それが当たり前にできる人こそが一番偉い人だというのは、子どもたちでも知っている真理なのです。
困っている人がいるときに、知らんぷりして通り過ぎれば、心に嫌な気持が残ります。その人が死んでしまったことが後でわかれば、「そんなことをしてしまった自分をゆるせない」という気持ちになり、自分が信じられなくなることさえあるでしょう。これはとても不幸なことです。逆に、困っている人を助け、その人が喜ぶ顔を見れば、自分もとてもうれしい気持ちになります。そこに、わたしたちの幸せがあるのは間違いのないことでしょう。幼稚園の子どもたちでさえ、そのことは知っています。「困っている人がいたら、助けてあげる」、それこそ、どんな時代にも変わることなく、わたしたちを幸せに導く真理なのです。
「困っている人がいたら、助けてあげる」というのは、「互いに愛し合う」ということに他なりません。「互いに愛し合いなさい」といったイエスの言葉、その言葉を実行して死んでいったイエスの生涯には確かに真理が宿っているのです。その意味で、イエスは真理を生き、わたしたちに真理を示した王。真理によって、わたしたちを幸せへと導く真理の王なのです。
もしイエスに従うというなら、わたしたちもこの真理に従って生きる必要があります。自分のことばかり考え、「なんでわたしがこの人を助けなければならないんだ」といって、困っている人を見捨てるなら、わたしたちはもはや真理の国の住人ではないのです。どんなときでも、真理であるイエスに従って生きることができるように、真理の国の住人として、幸せな毎日を過ごすことができるように、心を合わせてお祈りしましょう。
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