バイブル・エッセイ(1174)委ねる準備

委ねる準備

「太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。その日は、地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかるからである。しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。」(ルカ21:25-28、34-36)

 世の終わりが近づいたとき「人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう」、しかし、むしろ「身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ」とイエスは言います。「世の終わりとは、実は解放のときであり、何も恐れる必要がない。安心して、すべてを神の手に委ねなさい」ということです。
 ここでいう「世の終わり」は、わたしたち一人ひとりにとっては、死だと考えたらよいでしょう。「死が少しずつ近づいてくる。年老いて、体が動かなくなっていく。これまでできたことができなくなっていく。しかし、何も恐れる必要はない。ただ、神さまの手にすべてを委ねればいいのだ」。イエスの言葉を、わたしたちはそのように読み換えることができると思います。「世の終わり」、すなわち、死を迎えるとき、わたしたちは神さまにすべてを委ね、この地上を去ることになります。そのときに備えて、いつでも神さまの手に自分を委ねる心構えをしている。何ものにもしがみつかず、神さまの手にすべてを委ねて日々を生きる。それが、「目を覚ましている」ということの意味なのです。
 しかし、それはなかなか難しいことです。入院している高齢者をお見舞いに行くとき、「こんなことになってしまって、まったく情けない」という言葉を聞くことがあります。「食事をするにしても、トイレに行くにしても、人の手を借りなければならない。だから、自分は情けない人間、駄目な人間だ」ということです。そのように言う人に、わたしは、「そんな風に考える必要はありません。これまであなたは、困った人を見れば助けてきた。いまは、周りの人たちが、あなたが困っているのを見てあなたを助けている。ただそれだけのことです。人間の心の中にある愛、わたしたちの中に生きている神さまを信じて、自分を委ねましょう」と話すようにしています。「何でも自分の力でやらなければ駄目だ。人に頼るのは情けない」というのは、ある意味で自然な考え方ですが、それはまだ自分の力に頼っている状態だとも言えます。自分の力に頼らず、人の力にも頼らず、ただ神さまの愛を信じて、神さまの手に自分を委ねる。身の回りの人たちの愛、その人たちの中に宿っている神さまの愛を信じて自分の身を委ねる。それこそ、神さまを信じて生きる者にふさわしい態度なのです。
 そのように、一つひとつのことを神さまの手に委ねながら、自分を責めることなく、いつも前向きに生きていく。それが、「身を起こして頭を上げる」ということでしょう。「世の終わり」、すなわち死がやってくるとき、わたしたちは自分がこれまでしがみついていたすべてのものから解放され、神さまの愛に完全に身を委ねることになります。神さまの愛に身を委ね、神さまの愛と固く結ばれて、永遠に終わらない喜びを生きる。それこそが、わたしたちの「解放」であり、救いなのです。何ものにもしがみつくことなく、ただ神さまの愛に身を委ねる信仰を生きられるよう、共にお祈りしましょう。

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