バイブル・エッセイ(1175)愛によって選ぶ

愛によって選ぶ

 皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、リサニアがアビレネの領主、アンナスとカイアファとが大祭司であったとき、神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。これは、預言者イザヤの書に書いてあるとおりである。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』」(ルカ3:1-6)

 待降節の第2主日を迎え、今年も「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」というイザヤの言葉が読まれました。神のみ旨のままにまっすぐ生きるなら、イエスはまっすぐわたしたちのところに来てくださるということです。では、どうしたらまっすぐな人生、神のもとを離れて脇道に入り込まない人生を選べるのでしょう。

 フィリピ書1章に「知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように」というパウロの言葉があります。この言葉こそ、まさに、わたしたちがまっすぐな人生を選ぶための鍵だと言っていいでしょう。まっすぐな人生とは、神さまの前で「本当に重要なこと」を見分け、日々の生活の中で「本当に重要なこと」を選び続けることによって実現するものだからです。

 では、「本当に重要なこと」とは何でしょう。それは、愛に他なりません。心が愛で豊かに満たされているときにこそ、わたしたちは自分の置かれた状況を正確に知って、正しい道を選ぶことができるのです。神の愛の光に照らされてすべてが明らかになるとき、正しい道が示されるといってもよいでしょう。何かへの執着や、執着から生まれる不安、怒り、いら立ちなどは、わたしたちの判断をくもらせ、わたしたちを曲がりくねった道に引き込みます。「神のみ旨がどうであろうと、わたしはこれだけは絶対に手放したくない」というものがあると、正しい判断ができなくなるのです。神の愛の光に照らされたくもりのない心だけが、まっすぐな道を選ぶことができる。「あなたがたの愛がますます豊かになるように」と祈るパウロの言葉は、わたしたちにそのことを気づかせてくれます。

 では、神の愛とはなんでしょうか。どうしたら、「この道は神の愛に続いている、この道は続いていない」と判断することができるのでしょうか。一番簡単なのは、自分自身の心に尋ねてみることです。わたしたちの心の奥深くには、どんな人でも必ず神の愛が宿っています。判断に迷ったならば、自分の心の奥深くに降りてゆき、自分の心の奥深くに宿っている神の愛、自分の心の奥深くに住んでおられるイエスさまに、直接、尋ねればいいのです。

 このとき気をつけなければいけないのは、イエスに尋ねても、「そうか、ではこちらの道を行きなさい」というような言葉での答えは返ってこないということです。イエスは、言葉を使わず、わたしたちの心に直接に語りかけます。「この道を選んだらどうでしょう」とイエスさまに問いかけたとき、心の奥深くから静かな喜びが湧き上がって来たなら、その喜びこそが、イエスの答えなのです。その喜びを通してイエスは、わたしたちに、その道こそが正しい道だと示しているのです。

 このようにイエスの声を聞き分け、正しい道を選んでいくことを「識別」と呼びます。わたしたちの心の中に宿る神の愛、わたしたちの心の奥深くに住むイエスに直接、道を尋ねながら、主の道を整え、主の道をまっすぐにすることができるよう、神の国に向かってまっすぐ進んでいくことができるよう共に祈りましょう。

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