バイブル・エッセイ(1181)思い巡らす

思い巡らす

 そのとき、羊飼いたちは急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。その光景を見て、彼らは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。(ルカ2:16-21)

 羊飼いたちの話を聞いた人たちは、皆その話を「不思議に思った」が、マリアは「これらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」とルカ福音書は伝えています。マリアと他の人々では、羊飼いたちの話を聞く態度がまったく違ったのです。この違いにこそ、マリアが「神の母」として選ばれた理由があるように思います。
「心に納めて、思い巡らす」とは、単に「不思議だな」と思ったり、「困ったな」「なぜこんな目にあわなきゃいけないんだ」と嘆いたりして終わるのとはまったく別の態度だと言っていいでしょう。「心に納めて、思い巡らす」とは、いったんすべての出来事をあるがままに受け止め、その出来事を通して神さまが何を語りかけておられるのかを考えること。「神さま、あなたはこの出来事を通してわたしに何を語りかけておられるのでしょうか」と祈り続けることだからです。自分の限られた体験や知識の中で判断せず、謙虚な心で、神さまに出来事の意味を問い続ける。出来事を通して語りかける、神さまの声にじっと耳を傾ける。それが、マリアのとった態度だったのです。
 さまざまな変化に直面し、変化に翻弄されている現代のわたしたちは、いまこそこのマリアの態度に学ぶべきでしょう。たとえば、いま多くの小教区は高齢化と若者の教会離れという現実に直面しています。信徒数は減少し、このままでは聖堂の維持・管理ができなくなりそうな状態です。小教区だけでなく、あちこちから修道院やキリスト教施設の廃止、定期的刊行物の廃刊などのニュースも飛び込んできます。このような出来事の中で、教会のあちこちから、「こんなに頑張ってきたのに、なぜこんなことになるんだ」という嘆きの声が聞こえてきます。
 わたしも嘆きたい気持ちはありますが、それだけで終わらせてはならないと思います。これらの出来事を通して、神さまがわたしたちに何かを語りかけておられるに違いないからです。起こっている出来事は出来事として、あるがままに直視し、受け止める必要があるでしょう。出来事を直視せず、「神さまがすべてよくしてくださるから大丈夫」というのでは、神さまがわたしたちを助けようと語りかけておられる声を聞きのがしてしまいます。神さまはきっと、これらの出来事を通して、わたしたちをこれまでとは違った教会のあり方、21世紀を生きる現代の人々に最もふさわしい福音の伝え方を教えようとしているのです。落胆してあきらめず、謙虚な心で神さまの声に耳を傾け続けるなら、これまで想像もできなかったような形で、教会は再び力を取り戻すでしょう。わたしはそう信じています。
 これは教会だけでなく、わたしたち一人ひとりの人生にも当てはまるでしょう。「こんなに頑張ったのに、なぜこんなことになるんだ」と嘆くだけで終わらせず、その出来事を通して語りかけておられる神さまの声に耳を傾ける。それこそ、マリアがわたしたちに示してくれた信仰の模範です。すべての出来事を心に納め、それらを通して神さまが語りかけてくださる言葉に耳を傾けられるよう、心を合わせてお祈りしましょう。

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