バイブル・エッセイ(1182)巡礼の旅

巡礼の旅

 イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。『ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で 決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、わたしの民 イスラエルの牧者となるからである。』」そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。(マタイ2:1-12)

 輝く星に導かれて遠い旅をした博士たち。たどり着いたのは、ごく普通の家の前でした。「家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた」とマタイ福音書は簡潔に記していますが、おそらく博士たちはその家の中で、幼子イエスを胸に抱いたマリア様の姿を見たのでしょう。そのとき、博士たちはひれふして宝物を差し出しました。ついに、自分たちが救い主を探し当てたと確信したからです。

 星に導かれて旅をした博士たちを、巡礼者と考えてもよいでしょう。博士たちは、輝く星を追い、救い主が誕生したという希望に導かれて旅をする「希望の巡礼者」たちだったのです。輝く星を見上げながら野宿する夜に、博士たちは「ユダヤの王というからには、どんな立派な家に住んでいるのだろう」「メシアとなる赤ん坊は、どんな姿をしているのだろう」などと想像したかもしれません。しかし、実際にたどりついたのは、宮殿や豪邸ではなく、ごく普通の家でした。その家の中で赤ん坊を愛情深く抱きしめる母親、それを見守る父ヨセフのやさしい笑顔、すやすや寝息を立てて眠る幼子イエスを見たとき、博士たちは、ここに救いがあると確信しました。互いに愛し合い、一つに結ばれたその家族の中にこそ、人間の救い、人間の本当の幸せがある。長い旅路の果てに、博士たちはそう気づいたのです。

 わたし自身も、若い頃に巡礼の旅をしたことがあります。聖地を訪れ、イエスが十字架を背負って歩いたとされるエルサレム旧市街の道を歩いたり、ガリラヤ湖の周りを自転車で一周したりしたこともあります。旅の中で、「ここをイエスが歩いたのか、すごいな」とか「きれいな景色だな」という感動を味わうことはありましたが、残念ながら、「ここにわたしの救いがある」と思うような体験はありませんでした。

 わたしが「救い主」と出会ったと思える体験をしたのは、むしろ、インドで貧しい生活をしながら人々に奉仕する、マザー・テレサと出会ったときでした。相手によって態度を変えることなく、家のない貧しい人でも、人生の道に迷った金持ちでも、まったく同じようにやさしく迎え入れるマザー。死にかけた貧しい人に、母のような慈しみ深いまなざしを注ぐマザー。その姿を見たとき、わたしは「ここに救いがある」と確信したのです。マザーの中に、そして、マザーを突き動かしていたイエスの愛の中に、救いを見つけ出したと言ってよいでしょう。

 博士たちの体験とわたし自身の体験を重ね合わせたときに言えるのは、わたしたちの救いは、愛しあう家族の中に、大切な誰かのために喜んで自分を差し出す無私の愛の中にこそあるということです。巡礼の終着点は、どんな場合でも愛の中にある。そう言ってもいいでしょう。そのことに気づいて、自分の人生を愛のため、神のために捧げる決心をするとき、わたしたちの巡礼は次の段階に入ります。イエスを探し求める巡礼は終わり、イエスと共に歩む人生の巡礼が始まるのです。博士たちと共に救いを見つけ出し、新たな人生の一歩を踏み出すことができるよう、心を合わせてお祈りしましょう。

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