愛の火をともす
モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。それは主の律法に、「初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」と書いてあるからである。また、主の律法に言われているとおりに、山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げるためであった。そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。シメオンが“霊”に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。」(ルカ2:22-32)
「初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」と律法に書いてある通り、「両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った」とルカ福音書は記しています。「聖別」という言葉は、人にも物にも使われる言葉で、それを神さまのためだけに使うということ。例えばこのテーブルを聖別すると言えば、「このテーブルは神さまのためだけに用いる。他のことには使わない」ということ、人を聖別すると言えば、「この人の生涯は神さまのためだけに使われる。神さまのために捧げられる」ということになります。
この言葉の通り、イエスの生涯は神さまへの捧げものとなりました。イエスは、自分の生涯をただ神さまのためだけに使い、他の目的、自分の私利私欲を満たしたり、地上の権力者におもねったりするためには決して使わなかったのです。あらゆる苦しみに耐え、自分の人生を、ただ神への愛のためだけに差し出した。神を愛し、人を愛するためだけに使った。そう言ってもいいでしょう。
あまり意識していないかもしれませんが、わたしたちも、ミサに出るたびごとに、自分自身自身を神にお捧げしています。「神の栄光と賛美のため、またわたしたちと全教会のために、あなたの手を通しておささげするいけにえを、神が受け入れてくださいますように」と祈るとき、わたしたちはパンとぶどう酒と共に、わたしたちの人生も神にお捧げしているのです。わたしたちの人生を、ただ神を愛し、人を愛するためだけに使うと約束しているのです。
では、どうしたら、その約束を実行できるのでしょう。人生を神への愛のために捧げるとは、具体的にどういうことなのでしょう。教会の伝統の中で神への捧げ物として使われることが多い、ロウソクがヒントになると思います。ロウソクは、自分自身の身を燃やすことによって火をともし、周りを照らし続けます。人間は、祈ることによって心に愛の火をともし、その愛の火で周りを照らすことによって、神に自分を捧げることができるのです。心に愛の火をともし続けることによって、神さまのため、人々のために自分を捧げる。それが、わたしたちにとっての奉献なのです。
それは、体が動かなくなってからでもできることです。ロウソクが動かなくても周りを照らし続けるように、体が動かなくなっても、たとえベッドの上であっても、祈り続け、自分を神に捧げ続ける限り、わたしたちは心に愛の火をともし続けることができるのです。心にともった愛の火は、わたしたちの表情や言葉、仕草を通してこの世界を照らします。家族や介護のためにやって来る人、見舞ってくれる友人たちの心を、愛の光でやさしく包み込み、あたたかく照らすのです。
「あれをしなければいけない、これもしなければいけない」と難しく考える必要はありません。自分の人生を神に捧げるためには、ただ祈るだけでいいのです。もし体が動くなら、心にともった愛の火は愛の行いを生むでしょう。体が動かなくても、ただ祈っているだけで、わたしたちは神に自分を捧げ、周りの人たちを愛の光で照らすことができるのです。神さまに約束した通り、わたしたちの人生を神さまに奉献できるよう、最後まで祈り続けられるよう、神さまに助けを求めましょう。
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