バイブル・エッセイ(1187)愛の網を投げる

愛の網を投げる

 イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になった。漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた。話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった。これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである。シモンの仲間、ゼベダイの子のヤコブもヨハネも同様だった。すると、イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。(ルカ5:1-11)

「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」というイエスの言葉に従って網を下したところ、「網が破れそう」なほどの大漁になったという場面が読まれました。一晩中、漁をして何もとれず、疲れ切って舟を陸に上げ、もう網を洗っているというタイミングでしたが、ペトロは再び力を振り絞り、沖に漕ぎ出していったのです。ここに、わたしたちの見習うべき信仰があるといってよいでしょう。
 イエスは「漁をしなさい」とわたしたちに呼びかけています。たくさんの人が救いを求めて苦しんでいる。神の愛を知らないまま、「自分の人生には意味がない。もう生きていても仕方がない」とさえ思い詰めて苦しんでいる。その人たちのところに行って、「愛の網を投げなさい。その人たちを愛で包み込み、わたしのところに連れてきなさい」、イエスはそう呼びかけているのです。
 わたしたちは、その呼びかけにどう答えるでしょうか。「これまでの人生で、宣教しようとずっと努力してきましたが、自分の家族にさえ伝えることができませんでした。これからは、舟を陸に上げ、自分の体をいたわって休みます」と言いたい人もいるでしょう。しかしイエスは、そんなわたしたちに「漁をしなさい」と呼びかけ続けるのです。しかも、これまで行かなかった「沖に漕ぎ出しなさい」というのです。
「もう網を投げる力も残っていない」という人もいるかもしれませんが、宣教のために大きな網を投げる必要はありません。小さな網であっても、真実の愛で作られた網を投げればいいのです。それは、誰かに真心を込めてあいさつする。にっこりほほ笑みかけるということかもしれません。もし子どもや孫としばらく連絡をとっていないなら、電話をかけてみる、誕生日にお祝いのカードを送ってあげるということかもしれません。ほんの小さなことでも、そこに愛をたっぷり込めるなら、力強い愛の網になるのです。
 すぐに人々が引き寄せられてくることはないかもしれません。しかし、何年も続けていれば、きっとその網は相手の心に届きます。「この人は、なんでわたしにこんなに親切にしてくれるのだろう。この人が信じている神さまは、いったいどんな方なのだろう」と思ってくれる日が、いつか必ずやってくるのです。信じて網を投げ続ければ、神さまはきっとわたしたちの願いを聞き入れてくだるのです。
 それは、もしかするとわたしたちか死んだ後かもしれません。わたしたちが投げた愛の網は、後になってから力を発揮することも多いからです。「あのやさしいおばあちゃんが、とても大切にしていた神さまっていったいどんな方なのだろう」と孫が思ってくれる。「おじいさんがいつも手にしていた数珠みたいなものは、いったいなんなのだろう」とロザリオに興味を持ってくれる、そんなことも起こりうるのです。
 なにより大切なのは、「漁に出なさい」と呼びかけるイエスを信じ、その言葉に従うこと。あきらめずに、愛の網を投げ続けることです。次の網で、大漁になるかもしれない。そう信じて網を投げ続けることができるよう、共に祈りましょう。

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