バイブル・エッセイ(1188)何も持たない幸せ

何も持たない幸せ

 そのとき、イエスは十二人と一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった。大勢の弟子とおびただしい民衆が、ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から、来ていた。さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる。人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、あなたがたはもう慰めを受けている。今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、あなたがたは飢えるようになる。今笑っている人々は、不幸である、あなたがたは悲しみ泣くようになる。すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。」(ルカ6:17、20-26)

 イエスが弟子たちに、「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである」と語りかける場面が読まれました。ここで注目したいのは、「将来あなたがたは幸せになるだろう」ではなく、いま「幸いである」と言われていることです。イエスは、なぜそんなことを言ったのでしょう。
 「貧しい人々」というのは、生活に困窮している人たち、食べるものや着る物、住む家を持っていない人たちのことですが、何も持っていないがゆえに、何ものにもしがみつかない人たち、ただ神に信頼し、神に希望を置いている人たちという意味にもとれるでしょう。何かにしがみつくとき、わたしたちの心はそれを失う不安や恐れ、それを奪おうとするものへの怒りや憎しみになどにむしばまれていきます。持てば持つほど欲望は大きくなり、心はいつまでも休まることがありません。それに対して、何も持たない人、何ものにもしがみつかない人。ただ神に信頼して生きる人の心は、いつも穏やかな喜びで満たされています。すべてを手放して神に委ねた人の心を、神は豊かな恵みで満たしてくださるのです。その人はもう、この地上にいて「神の国」を生きていると言ってもよいでしょう。何も持っていない人こそ豊かである。何も持っていない人こそ幸いである。それが、「神の国」の逆説的な真理なのです。
 しがみつく相手は、お金や物に限りません。目には見えないもの、たとえば自分自身の考え方にしがみつくということもあります。「これまでに様々な体験をしてきたわたしは、このことについて一番よく知っている。わたしのやり方が正しい」と考えるとき、その人は自分の体験という「財産」にしがみついているのです。その結果、自分と違った考え方をする人がゆるせなくなり、その人の心は怒りや憎しみにむしばまれていきます。何かを持ったばかりに心の平安を失い、神の愛から離れて苦しみの世界に落ちていくのです。
 そのように考えると、「貧しい人々」というのは、謙虚な人たちのことだとも言えるでしょう。自分の限界を知り、正しい方は神以外にいないと知って、すべてを神の手に委ねる人。神の前にへりくだり、いつも神の声、愛の声に耳を傾けて生きる人は、もうこの世界で「神の国」の幸せを生きているのです。謙虚な人、自分を低くする人こそ高く上げられる。それが、「神の国」の逆説的な真理なのです。
 宇部・小野田の三つの教会が一つになり、新しい教会として生まれ変わろうとするこのとき、わたしたちはこのイエスの言葉を心にしっかり刻みたいと思います。それぞれに違った歴史を持ち、違った考え方を持つわたしたちが心を合わせるために何より必要なのは、なにものにもしがみつかない貧しい心なのです。自分が持っているものにしがみつき、争うことがないように。いつも謙虚な心で互いの意見に耳を傾け、相手を通して語りかける神の声を聞きながら進んでいくことができるように、共に祈りを捧げましょう。

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