バイブル・エッセイ(1192)神の子の輝き

神の子の輝き

 イエスは、ペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登られた。祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである。二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。ペトロと仲間は、ひどく眠かったが、じっとこらえていると、栄光に輝くイエスと、そばに立っている二人の人が見えた。その二人がイエスから離れようとしたとき、ペトロがイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは、自分でも何を言っているのか、分からなかったのである。ペトロがこう言っていると、雲が現れて彼らを覆った。彼らが雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐れた。すると、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と言う声が雲の中から聞こえた。その声がしたとき、そこにはイエスだけがおられた。弟子たちは沈黙を守り、見たことを当時だれにも話さなかった。(ルカ9:28-36)

 弟子たちが恐れていると、雲の中から「これはわたしの子、選ばれた者」という声が響いたとルカ福音書は記しています。「選ばれた者」とはつまり、人間の弱さを背負って十字架につけられるために選ばれ、その使命を受け入れた者という意味でしょう。地上での栄光を捨て、人々のために自分の命を差し出すことを選んだとき、イエスの体は天上の栄光に包まれたのです。
 天上の栄光に包まれたイエスの姿を、ルカ福音書は「イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた」と表現しています。顔がどんな風に変わったんだろうと想像するとき、わたしはいつも、高齢の神父様方の顔を思い出します。体が自由に動かなくなり、介護付きの修道院で暮らしているのに、なぜか顔が少年のようにきらきら輝いている、そんな神父さんたちの顔を思い出すのです。何の曇りもない穏やかな表情、ひょうひょうとした佇まい、いろいろな言い方ができると思いますが、やはり何か、顔が輝いていると言いたくなるものがあります。確かに顔にはしわやしみがあり、髪の毛は真っ白ですが、その顔には、まるで子どものようなあどけない笑顔が浮かんでいるのです。
 それはきっと、神さまから与えられた使命を存分に果たし、もう神さまの手にすべてを委ねているからでしょう。「自分がやってきたことにどんな意味があるのか」、もうそんなことさえ考えていないようです。自分なりに精いっぱいにやって来たことを、神さまの手にすっかり委ね、あとのことは神さまに任せている。そんな風に見えます。神さまのため、人々のために自分のすべてを差し出したとき、彼らの体は天国の栄光に包まれた。そのように表現してもよいでしょう。イエスの体が輝いたのと同じように、彼らの体、彼らの顔も輝いているのです。
 幼い子どもたちの顔に浮かんだ純粋な笑顔と、天国に戻っていくための準備が整いつつある高齢者たちの顔に浮かぶ笑顔が似ているとすれば、その笑顔こそが、神の子としてのわたしたちの本来の姿だといってよいでしょう。私利私欲を捨て、ただ神への愛のため、隣人への愛のために自分を差し出すとき、わたしたちの内に宿った神の愛が輝きを放つ。その輝きが、顔や全身を明るくするのです。
 高齢の神父様方でも、介護付きの修道院に入ってすぐのときは、とまどいを感じることがあるようです。これまでのように、自分で歩いて人に会いに行くこともできないし、感染症予防などの理由から外部との接触が限られてしまったりするからです。しかし、「あれもしたいこれもしたい」「あの人に会いたいこの人に会いたい」という思いを一つずつ手放していく中で、顔が少しずつ穏やかな輝きを放ち始めます。「何もできなくても、祈りの中でイエスと共に過ごすことができればそれで十分」と、少しずつ思えるようになっていくにつれて、その体は天国の栄光に輝き始めるのです。先輩方の模範にならい、わたしたちも自分の思いを少しずつ手放していくことができるように、神の子としての本来の姿、愛の光に輝く姿に近づいていけるよう祈りましょう。

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