まずは自分から
イエスはオリーブ山へ行かれた。朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」(ヨハネ8:1-11)
姦通の現場で捕らえられた女性を連れてきた人たちに向かって、イエスが、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と言う場面が読まれました。「あなたたちの中にも、この女性と同じように罪がある。この女性を裁く資格はない」ということでしょう。自分のことを棚に上げて他の人を裁いてしまいがちなわたしたちにとって、耳の痛い言葉です。
現代では、当時のような「石打の刑」はありませんが、間違いを犯した人をよってたかって叩きのめすような行動は見られます。教室や職場などの身近な共同体の中でも、あるいはもっと広く、マスメディアによる報道や、インターネット上の誹謗中傷などという形でも、そのようなことが起こりやすいのです。時代を越えて、なぜわたしたちは、そのような行動をとり続けるのでしょうか。
わたしたちの心の中にある、社会に対する言いようのない不平不満が、間違いを犯した一人の人に向かって投げつけられる。それが、「石打ち」の原因ではないかとわたしは思っています。わたしたち人間には、物事が思った通りにならないとき、それを、自分以外の誰かのせいにする傾向があります。「わたしがこんなに頑張っているのに、うまくいかないのはこの人のせいだ」と考え、その人に石を投げることでうさを晴らそうとする。それが「石打ち」の原因なのです。間違いを犯した人が相手なら、気兼ねせずに石を投げられるということでしょう、誰かが間違いを犯したときによく起こります。ときには、石を投げる対象が、個人ではなく特定のグループになることもあります。「あの人たちがいるから社会がよくならないんだ。わたしの生活がよくならないんだ」と考えて、怒りをその人たちに向けてしまうのです。
そんなわたしたちに向かって、イエスは、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と言います。「あなたが頑張っているのはよくわかる。しかし、社会があなたの思っているようなよい社会にならないのは、本当にその人のせいだけなのか。あなた自身の中にも、原因があるのではないか」ということです。わたしたちはよく「社会が悪い」と自分のことを棚に上げて批判しますが、わたしたち自身も、その社会の一部であることを思い出す必要があるでしょう。社会は、さまざまな要素が複雑に絡みあうことで出来ており、特定の誰かだけに責任を押し付けて「社会がよくなる」ということはないのです。
誰かを責める前に、まず自分自身に目を向けたらよいでしょう。人のことを責められるほど、自分は立派な人間なのか。わたし自身に、改善すべきことはないかと、考えてみる必要があるのです。それはきっと苦しいことでしょうが、そのような苦しみを味わう中で、わたしたちは初めて、周りの人が味わっている苦しさに気づくことができます。そして、同じ苦しみを抱えた者として対話し、社会を変えるために一緒に働けるようになるのです。イエスはわたしたちをゆるしてくださいますが、同時に、「これからは、もう罪を犯してはならない」とも言います。イエスの愛に応え、まず自分自身を変え、自分自身から社会を変えてゆけるよう祈りましょう。
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